第6節 「より外なるわれわれ」のために
- いま、空港ロビーにわたくしども30名が集まっているものとする。まだ、1〜2名やって来ていない。で、その1〜2名を待っているところである。
このわたくしどもは、互いにすこぶる行儀よくし、互いに失礼にならないようにしている。
けれども、よく気が付いてみると、わたくしどもが集まっている場所は、このロビーの中で、人々が通路として使っているところであった。
このため、いろいろな人がやって来て、わたくしどもの集まりにぶつかる。
わたくしどもの集まりがじゃまになるが、彼らはわたくしどもに迷惑をかけてはならないと思うのであろう。わたくしどものまわりをぐるりと遠回りして進んで行く。
こういう情景は、日本で、常日ごろ、見かけるものである。
もし、これが海外の空港ロビーであれば、その国の人たちは、たとえ、集まっていたとしても、目敏くどこが通路であるかを読み取るものである。そうして、自分たちの固まりを、その通路にかからないように気を付けているものである。
この点、日本人の作法は、個人対個人としてはよくできていても、自分たちの集団が、その外の人たちに与える迷惑について考える力に弱い。
- ある日、わたくしは、アメリカのあるホテルを見学する日本人団体の一員として、そのホテルの裏方の廊下に立っていた。
われわれは、そのホテルの支配人の説明を聞いていたわけである。
日本人の通例として、こういうとき、廊下の真ん中を開けておくことを知らない。で、その廊下に入ってきたそのホテルの1人の従業員が、われわれの間を通り抜けようとしても、われわれは一向に廊下の真ん中を開けなかった。
それだけでない。「こちらは、お前のホテルの支配人の客なんだ。見ろ。お前のところの支配人も、ここにいるじゃないか」と言わんばかりの目付きをして、いま入ってきた従業員を眺めていた。
このとき、支配人は説明をやめて、われわれに対し、丁寧に、いま入ってきた従業員を通してやってほしいといった素振りをした。
が、われわれは、この支配人の素振りの意味を理解しかねていた。支配人は、われわれの中に割って入ると、その従業員のために、自分の身をもって通路を作りだした。その従業員は、小声で、その支配人に、「サンキュー」と言って通り抜けて行ったが、われわれを軽蔑するようなまなざしで、一瞬、見すえていった。
その晩、われわれが別のホテルに投宿し、話し合っているとき、われわれの中の一名が、突然、こう言った。
「きょうのうしろからきた従業員のヤツ、日本人をバカにしやがった。ロビーやレストランでは丁寧にしても、裏方ではああだ。それにしても、あの支配人は自分のところの部下に、あれほど、丁寧にしなければやっていけないのかなあ。われわれという客を押し分けやがって、自分のところの従業員に道を作ってやったぜ。これがアメリカ社会なのかなあ。それとも、あのホテルは労働組合が強いのかなあ。それとも、あの支配人までが、実は、われわれ日本人をバカにしていたのかな」
諸君はこれをどう思われるか。
この支配人は、われわれという客が、国際常識として、通路を常に開けておくということを知らなかったから、臨時に交通巡査になったまでのことである。
- 作法は、確かに、まず、1人対1人のものである。けれども、こちらが集団となったとき、こちらの集団の外の人たちに迷惑をかけないため、常に気を配っていることを、より大切と考えたい。
- このとき、日本では、1名の集団統率者がいて、わが集団全体の集団外に対する迷惑に気を使うことについては、よくできる。
また、この集団内の1人1人は、この統率者の言うことをよく聞くことについても、よくできる。
が、この集団内の1人1人が自分たちの集団の外に与える影響について気を配るところまでは、進歩していない。
これでは、国際社会の中にあって、日本人は嫌われ者とならざるを得ない。
また、口には民主主義と言いながら、おとなの民主主義になっていない。
そうして、号令を掛けられなければ、何にもできない子供なのである。
総論