第6章 和式作法 ◆第6節 日本茶の歴史
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第6節 日本茶の歴史

【通解】日本茶の歴史
【参考1】3千家の相違
【参考2】


【通解】日本茶の歴史
  1. 茶はインドから、東西各地に広がって、中国の広州にも伝えられた。初めは薬用として使われていた。
    が、漢(BC202〜AD220)の時代になると一般に飲まれるようになった。
    唐(611〜907)の時代に諸国を放浪した陸羽により、茶の経典といわれる「茶経」が著された。

  2. 禅宗は、510年、達磨(だるま)禅師により、少林寺に始められたが、唐の時代に入っては、すでに、座禅中の眠けさましに、また、心をすがすがしくして、禅の心境を進めるため、禅僧の間に盛んに用いられ、茶と禅とが結びついた。

  3. そのころの中国の禅には「清規」(しんぎ)と呼ばれる諸規則があり、その中に、禅茶の礼法が定められてあった。

  4. 日本では、明庵栄西(ようさいとも読む)禅師(1140〜1215)が南宋から帰国(1168)した際、茶の種子を持ち帰った。
    栄西は、「喫茶養生記」(1214)を著している。
    彼は、これを光州の背振山(せぶりのやま)や京都に植え、茶を広めた。
    また、栂尾(とがのう)の明恵上人にも喫茶を勧め、茶種を贈り、明恵はそれを京都の宇治に蒔いたとも伝えられる。
    さらに、栄西は1214年に、源実朝(1191〜1219)にも茶を勧めたことが、「吾妻鏡」に載っている。

  5. 栄西の孫弟子である道元禅師(1198〜1253)は、永平寺(1244)を開いて「永平清則」を作り、正しい茶礼(されい)作法をきめた。

  6. このように、茶は、鎌倉時代末にすでに、相当普及していた。
    「討茶」というのは、当時の武士の間に、相当普及していたが、産地の違う茶を飲みわけて、その産地をあてるゲームであった。

  7. こうして、禅門には、修業の合間に、茶礼という習慣ができあがり、日本の寺院における茶の作法は確立された。

  8. 後年、夢窓国師(1274〜1351)が、京都に天竜寺(1339)を開いたとき、足利将軍の帰依を受け、禅宗の外部に対する茶礼の儀式が盛んに行われたことが記録されている。

  9. また、足利義政(1434〜1490)は銀閣寺に茶室と呼ばれる部屋を造り、妻、富子と茶に心酔した。

  10. この茶に心を寄せていた義政の庇護を受けたのが、一休和尚に参禅していた村田珠光(じゅこう)(1421〜1502)であり、彼は茶禅一味の茶祖になった。

  11. 村田珠光の孫弟子が、武野紹鴎(たけのじょうおう)(1502〜1555)であり、その弟子が、堺の商人たる千利休(1520〜1651)である。

  12. この戦国時代(1491〜1590)に、武家が陣中で茶事することが、流行した。

  13. 利休は、織田信長に用いられ、信長の死後は、秀吉の厚い信頼を受け、さらに、多くの大名の茶の湯の師匠となった。

  14. こうして、鎌倉時代から禅が武家の教養であったのに加えて、茶の湯が武家のレクリエーションとして広まった。
    で、茶道が禅宗から離れて独立の道を歩み、いっそう冴えたものとなったのは、茶聖・千利休を生みだした秀吉の時代からのことであった。

  15. ただ、利休の高弟である山上宗二の「山上宗二記」には、「茶の湯は禅宗より出でたるによって、僧の行を専らにするなり、珠光、紹鴎みな禅宗なり」と書かれている。

  16. 宗二とともに、利休の高弟である南坊宗啓著の「南方録」にも「茶の湯第一、仏法をもって修業得道する事なり」と記されている。

  17. このように、利休ののちも、茶の湯を禅修業の1つと考えることをやめてはいない。
【参考1】3千家の相違

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  1. 表千家の系統
    不審庵を継いだ4世江岑宗左(こうしんそうさ)は、茶事をもって紀州徳川家に仕え、子孫は代々その禄を食んだ。
    この系統を表千家という。江岑宗左は、二木町棚、鳳凰風炉をもって知られている。

  2. 裏千家の系統
    利休の孫、宗旦の没後に今日庵を嗣いだ、仙叟宗室(せんそうそうしつ)の系統を裏千家という。
    宗室は、茶事をもって加賀藩主前田家に仕えて、桑子卓(くわこじょく)の棚物、青磁袴腰の香炉、瓢細(ふくべ)口花入れの取り合わせで世に知られた。
    後に、時勢に鑑みて、椅子点、すなわち、立礼式を考案するなど、茶式の改良につとめた。

  3. 武者小路千家
    これは、宗旦の次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)が、茶事をもって、讃州高松藩に仕えたが、老いて官を辞し、京都武者小路に官休庵と称する茶室を建て、みずから官休庵1世を称したのに始まり、10世有隣斎宗守に至っている。
    宗匠ぶらない親しみの持てる茶人であった。

  4. 3千家の交流
    3千家は、いずれも、利休の孫宗旦の息子から分かれたものであって、表千家を中心に、婚姻関係もしばしば重ねられ、互いに相扶けて茶道文化の興隆に寄与するところ、偉大なるものがあった。
    茶事の方式においては、根本に変わりはなく、子々孫々、相伝えて今日に至っている。
【参考2】

千利休の茶道は、前記のように「三千家」に分かれたが、それ以外にも、利休の門下からいくつかの流派を生み出している。
なかでも代表的なものは、利休門下の古田織部(ふるたおりべ)の弟子、小堀遠州の開いた「遠州流」、片桐石州の開いた「石州流」、千家三世の宗旦門下の松尾宗二を祖とする「松尾流」などがある。
また、表千家七代の如心斎宗左の高弟、川上不白が江戸へ下って「江戸千家流」を開いた。
以上の、千家諸流以外にも、千利休以前から存在していた「細川流」などが、現在も続いている。


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