第6章 和式作法 ◆第13節 本膳料理
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第13節 本膳料理

【通解】
【参考】

【通解】

本膳料理は、日本料理の代表的なものである。
その歴史をたどると、つぎのような3つの時期に分けられる。

 第1期
日本料理は、古代から、奈良時代までに、相当、発達したものと思われる。
古代の食品は、この島国にある食べ得るかぎりのものひととおりを網羅していた。
食塩製造以前には、動物質に含まれる有機塩を摂取していたと思われるが、しだいに藻塩焼によって造られる食塩に代わっていった。
また、稲作農耕が国内に普及し、米が主食、野菜、果実、魚貝、鳥獣が副食となった。
このころには、箸も使用されるようになったと思われる。
仏教の伝来により、食品のタブーが多くなったが、貴族階級が栄華を極めると、食事にも気を配るようになり、しだいに、現在の本膳料理の基礎となった。
 第2期
平安時代になると、仏教が普及し、肉類を食べなくなった。が、調理技術は発達した。
この時代の大陸文化の影響から、年中行事の様式も、公事として定められた。
食事の形式化、儀式化は、さらに、食器の面まで発達し、貴族の食器である青銅、銀器のほかに、漆器が加わった。
食生活の充実は、平安文化に響応の膳として展開された。
このころから鎌倉時代初期にかけて、現在とほとんど変わらない本膳料理が作られたと思われる。
箸の使用ももちろん、匙(かい)というもので、すくって食べる食べ方もあった。
 第3期
武士の時代が来ると、公家のぜいたくな形式を戒め、諸事質素な風習を奨励した。
また、この時代に、中国文化の影響により、禅宗が広められ、精進料理が生まれた。
室町時代には、幕府が京都に置かれたため、公家社会との交流が盛んになり、武家作法が確立された。
諸祝儀も次第に厳格になり、器膳などの形式が定められた。
これはやがて、安土・桃山時代の茶道の完成とあいまって、茶懐石料理へと発展したのである。
本膳洋理は、宮廷料理から始まり、精進、茶懐石料理など、形式、内容とともに、中国、南蛮のものを吸収、消化し、その時代に合わせ、日本独自の料理として完成されたのである。
【参考】

本膳料理という名前が確立するのが、そのむこうをはる茶懐石料理が発生してからである。
およそ、物ごとには、それに対立する物が現われるまで、名前などというものはない。

本膳料理というものは、奈良、平安時代からあり、はしを使って食べる、日本古来の食事形式である。
はしは、奈良時代に用いており、それまで手で食べ、貝がらでひっかいて食べた形が、はしに置き換えられた。

ご飯を、木のくりもの、すなわち、飯椀に高くてんこ盛りする形も平安時代には、木の皿を用いることが奈良時代に始まっている。

昔あっていまない器は、まな板である。
まな板の上で魚を切り、そのまま、そのまな板の上に乗せて客の前に供した。
いまでは、そのまな板は、調理用のみ用いられている。

飯碗を左に、汁椀を右といったならべ方は、平安時代に確立し、たとえば、縁起式のさだめのごとく、初めは、神様へのおそなえのお膳の並べ方に始まった。
本膳料理がいまの形で定形化したのは、将軍足利義満のおかげである。
彼は、当時、多くなってきた皿の種類を、定形化し、その配列をも定形化した。

さらに、彼は、食べていく順序、したがって、はしをつける順序をも確立した。
海の物、山の物、野の物という順序で、はしをつけることにしたのもそのときである。
一汁三菜、二汁五菜、三汁十一菜といったご馳走のランキングも定めた。
これをお膳の数で表現すると、二の膳、三の膳、五の膳といった種類になる。
これを、定めたのも足利義満である。

本膳料理と宴会料理の大きな相違点は、本膳料理が、「飯」と「汁」に重点を置いているのに対して、宴会料理が「酒」に重点を置いていることである。
献立も、宴会料理では、酒に合わせた配列となったことである。


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