第2節 作法とは
- 人があることを心に思っただけでは、形に現われない。神学、哲学によっては、宇宙の主宰神が何かを思ったとき、それが森羅万象の形になって現われると
説明している。
神様でない人間のとき、思っただけでは、形にならない。
「心に姦淫すれば、身に姦淫したに等しい」という考え方によれば、人も神の分身として、微弱ながら、神的能力を持っていることになる。そうかも知れない。
しかしながら、通常、人が心に思っただけでは、他の人から見てわかるような形に現われない。
ただし、ある人物が過去のはずかしかった体験を思いだし、顔を赤らめたといった場合、第三者から見て、そこに、赤面という形が読める。
が、こういった場合を除いて、やはり、人が心に思っただけのとき、その形は現われない。
- 人が心に思ったうえ、さらに、何らか、服装なり、姿勢なりを示しているならば、そこに形が現われている。これを「姿」と呼んでみよう。
また、人が何かを思い、それを声に出せば、そこには「言葉」が現われている。
また、人が何かを思い、それを1つの動きにおよべば、そこにはそういう「動作」が現われている。
- また、人は、無意識に、ある「姿」や、ある「言葉」や、ある「動作」を示すこともある。
- さらに、人はあることを思っていても、その、思いとは関係のない「姿」や「言葉」や「動作」を示すこともある。
- この「姿」や「言葉」や「動作」をまとめて、「人」の「外的現象」と呼んでみよう。
- これらの「外的現象」は、社会ないし集団の秩序の維持のため、じゃまになることがあるし、個人的な相手に、迷惑をかけることがあるし、少なくとも、不
快感を与えることがある。
そこで、人は、めいめいに、これらに注意するようになったし、そのやり方についても、いつとはなしに、同じやり方を採るようになってきた。
- また、それらの「外的現象」の中には、他の人たちから誤解を受けないようにするため特定の形を守るよう申し合わせているものもある。
- これらの申し合わせで、「避けることにしている形」、または、「用いることにしている形」を、「規範」と名付けてみよう。
- 規範は個々の地域社会ごとに発生し、次第に、全人類的なものに統一されてゆきつつある。
また、規範は個々の部門社会ごとに発生し、徐々に、全部門的に統一されてゆきつつある。
- しかしながら、いかに、全人類的に統一しようとしても、その地域社会なり、その部門社会なりの特殊事情によって、全人類的に統一した規範を守ったので
は、不具合を生ずる場合もある。
この場合、その統一化は、そこで、停止しなければならない。
- さて、このような規範を定める権威者は、さまざまである。ある場合は、国際裁判所であり、国連政府であり、また、一国の政府であり、また、数多くの人
たちから権威者とみなされているグループ、または、権威者とみなされている個人である。
- また、この権威者は、その時代の誰もが会ったことのない、大昔の人たちである場合もある。
- ところで、誰か1人の始めた「やり方」を、次第に多くの人々が好ましいと思うようになり、みんなで行なうようになった「流行」がある。
「流行」の中には、権威者が始めたから、それをみんなが模倣するものがあるが、そうでなく、まったく、権威者でない人の始めたものもある。
こういった流行の所産が、規範と認められるに至るためには、その社会での権威者による公認を経なければならない。この点に、注意されること。
つまり、「流行」の中には、規範に至り得るものと、至り得ないで消えてゆくものの区別があるということ。
- 規範には、国際的規範、一国的規範、地方的規範、一社的規範、一世帯的規範といったランクがあるわけであるが、われわれは自分のまわりにいる人たちに
よって、これを使い分けなければならない。
- また、規範の中には、「必ずこうせよ」、「なるべくこうせよ」といった強制度のランクの区別がある。
法令、社則といったものは、その強制度が強く、道徳律などはそれが弱い。
- 作法は道徳律の一部分、または、その延長である。別な形において、法令も道徳律の延長ではある。
- 法律がそうであるように、作法も人々の「約束」として生まれている。
- 作法は人々に迷惑を掛けないという核心部分から、人々に不快感を与えないという周辺部分におよび、さらには、人々に快感を与えるという展開部分におよ
んでいる。
で、この展開部分が大きく目立つ。「人をおとし入れるな」といった部分に焦点のある道徳律とおよそ掛け離れたものに見える。
が、作法の道徳律との関係をあやふやに見てはならない。
- 作法の目的は、次のとおり。
@ 社会、ないし、集団の秩序の維持。
A 相手、または、人々に迷惑を掛けない。または、不快感を与えないようにする。
B 相手、または、人々を保護し、そうでなくても快感を与えるようにする。
この @ 以下を番号の若い順に重要視されること。
- 作法とは、「動作方法」の略。
- 作法という言葉は、中国の言葉でなく、日本で作られた言葉のようである。
明治時代の文部省初等・中等教育カリキュラムの中に、「作法」という言葉がある。
あるいは、明治時代に、Etiquette、ないし、Manners の訳語として作りだされた言葉であったかも知れない。
- 習慣的に作法と呼ばれるものの中には、動作方法だけでなく、服装法、化粧法、ものの言い方などが含まれている。
そのことは、Etiquette、Manners の場合も同一である。
- 日本には、古来、「礼法」という言葉がある。礼法の守備範囲は、作法と、まったく、同一である。
すなわち、礼法とは、「礼儀正しくする方法」ということであろう。
- ある説にいわく、礼法とは、公卿、大名のやり方を規定していたものであるから、明冶時代に入って、国民一般のために、あらたに「作法」という言葉を
作ったのであると。
そうであったかも知れないが、こん日となってみれば、「礼法」というも「作法」というも、区別がないとみたい。
- 作法とは、「型」である。
- 英語では、作法を Etiquette とか Manners (Sがつく)とかいう。
- ギリシア語で、人間関係、倫理を、ηΘ?Κ?S(Ethikos)、ラテン語で、ethica、フランス語で ?thique、ドイツ語で die
Ethik 、英語で ethics という。
フランス語の ?thique から、形容詞の俗語 ?tique (型だけの)が発生。これが同じくフランス語で名詞になって
?tiquette。これは型、符牒、切符、宮中礼式と、さまざまな意味をもつ。
- これが、英語に移って、切符は ticket となり、型、宮中礼式のほうは、フランス語形のまま etiquette
となった。要するに「型」。
- Manners は方式であるが、「型」の意味が強い。
- Etiquette と Manners の語義に区別をつけるのは、アメリカでの一部の人たちの意見。そこでは、Etiquette
を、貴族的、形式的なものといい、Manners を、庶民的で、心のこもったものという。
日本では、第2次大戦前、主としてイギリスから、Etiquette がはいり、戦後は、アメリカからManners
がはいったので、現在では、この区別意見を尊重する人々もあるが、本来、そのような区別がない。
- Etiquette、Manners、ともに、「型」である。
- 作法を「型」でない、ほかのものと考えられると、作法がわかりにくいものとなる。
- 作法という型には、「これだけはするな」という「排除型」と、「こういうやり方をせよ」という「指向型」がある。
【参考】
- Etiquette、すなわち、「札」が「作法」になったいわれについて、日本では、しばしば、次のように説明されている。
ルイ14世の宮殿の庭に、バラが咲いていた。貴族たちが、つぎつぎに、そのバラのそばに近付いたのでバラの根が傷んだ。
そこで、園丁が「バラに近寄り過ぎないように」という木の「札」を立てた。
これから、「こうするものでない」、とくに貴婦人に近寄り過ぎないようにという戒めを、「あのバラ園の制札と同じことである」と貴族たちがささやくように
なり、それで、Etiquetteという言葉が、宮廷内、ひいては、パリ市民の流行語となり、作法一般を指すように広がったというのである。
このような話は、はじめ、ヨーロッパのなんらかの作法読本に書かれたものであろう。
日本では、その孫引きか、孫々引きぐらいで書かれたものと思われる。事実、ルイ14世の宮廷から、そういう流行語が発生したかもわからない。
また、この話は美しくウイットに富んでいるから、よく普及している。
けれども、ルイ14世時代より前に作法を表わす Etiquette という言葉のあったことを知っていたい。
- 国家間の作法の型を、プロトコール(Protocol)と呼んでいる。はじめ、ヨーロッパ諸国間のものであったが、その形のまま世界に広がっている。
【参考】
- 作法の正しい人というとき、英語では、lady と gentleman が、関係の深いことばとして、浮かんでくる。
で、これらのことばの語源を、いちど、洗っておこう。
- ラテン語で、gens は種族。 gentilis と変化すると「国びと」。これは、同胞という意味と、異邦人、異教徒という意味を持つ。
イギリスに、キリスト教が入ってくると、カンダベリー寺院、セントポール寺院、ソールスベリー寺院を中心として、ローマから来ている坊さんたちは、イギリ
ス人たちのことを、このラテン語の gentilis(国びと)という呼び方で呼んだ。
が、そう呼ばれている現地の、アングロ・サクソンたちも、平気なもので、呼ばれるままに、自分たちを
gentilis(国びと)と呼んでいた。「同胞」と理解してみたり、少しは、「異邦人と思われているな」と理解してみたり。
だいたい1100年代に、この gentilis は英語体系に融け込んで gentil という外来語となった。
ハンカチーフがハンカチと詰まったようなもの。
しかし、この gentil には、すでにして、教会と密着している旧家の人々という別の意味を生じていた。
で、1000年代の終わりごろから50年目ごとぐらいに出かけていった十字軍の幹部は、だいたい、この gentil と呼ばれる旧家の連中であった。
また、ノルマンジーを獲りに行ったのも、この連中であった。
1173年には、神学部を中心として、オックスフォード大学が創立され、1228年には、ケンブリッジ大学が、そこから、喧嘩別かれして独立した。
1383年には、ウイクリフが、聖書を英訳する。 こういった過程において、聖書の中のラテン語
gentilis「異邦人」ということばを英訳するとき、すでに、イギリスでの尊称となっている gentil と同じでは、具合が悪い。
で、異邦人のためには、gentile という新語を作った。 (こん日では、この gentile も別の意味を持つようになっているが)
で、従来の旧家の尊称 gentil は、gentle と形を変えた。
日本の古代に、ヤツコというのがある。「やっこさん」の源である。 「ヤ」は家。「ツ」は「の」に同じ。「コ」は子。ヤツコとは、「家の子」。
大家長のもとに、ごろごろしていたり、命令一下、働いたりした存在で、いまでも、南方に行くと、そういう不思議な存在が多い。
日本に漢字を持ってきたとき、「奴」の字をあてたので、ヤツコとは、農奴であったように言う現代人があるが、ナンセンスである。
大和朝廷は、地方の豪族に「くにのみやつこ」という肩書きを与えた。 国家にとっての家の子ということ。「み」は尊称。
もし、「ヤツコ」が農奴であったならば、誰が、「国の御農奴さま」といった名前を与えようか。 そういう肩書きを貰った側も、喜ぶまい。
「くにのみやつこ」のほうには、漢字が入ってきたとき「国造」という文字を当てた。
「くにのみやつこ」と gentle とは、ことばの発生過程が、やや、似ている。 で、ここから、旧家の男子を gentleman
と呼ぶようになった。
これを邦訳するとき、中国の「紳」(幅広の帯)をしめた「士」(社会的責任を執る男子)ということで、「紳士」(家柄のよい男子)を持ってきて、訳語とし
たのは、gentleman の語源から見て、正確であり、この訳者の勉強のほどにおどろかされる。
が、gentle 出身者は、概して、おっとりしていた。
で、gentleman とは、おっとりした男子をあらわすニック・ネームとしても使われるようになった。
また、 gentleman ! と呼べば、「且那さん!」とか「お客さま!」と言っていることになり、 gentlemen !
と呼べば、「殿がた!」と呼んでいることになった。
で、gentleman に「自分を押さえている静かな人」、「謙者」という意味を与えたのは、1600〜1700年代以降と見たい。
gentleman‐ship
に、だまって、相手を保護する姿勢や、フェア・プレイをして、いかさま勝負をしない姿勢や、思いやりのある姿勢が、単に、「静けき……」のほかに、くっついているのは、こ
の語源にさかのぼるときに、理解される。
citizen‐ship のほうは、黙々と、社会的義務を果たす姿勢であって、gentleman‐ship と視点が異なる。
- さて、lady はどうか。
ことばとしては、lady のほうが gentleman より古い。lady という言葉は、AD1100年以前には、hlaefdige
と表わしたらしい。 これは、きっぱりとゲルマン系のことばである。 hlaef は、こん日、loaf となっており、「一かたまりのパン」を言う。
で、hlaefdige で、「パンをこねる者」。日本語にすれば“ごはんたきさん”。これが、laefdig、laefdy、laedy、lady
と変わった。
この変わってくる途中で、このことばは、日本の古語での郎女(いらつめ)と同じく、女性一般を指すようになり、やがて、日本の奈良時代に、その郎女が、貴
婦人をあらわす称号に採用されたように、イギリスでも、1400年代ごろから、貴族の女性をあらわす称号に採用され、それから、貴婦人一般をあらわすこと
ばとなった。
邦訳するとき、「淑女」としているのは、紳士と並べた名訳であるが、この淑女は、どうも、明治初年ごろの日本製漢語である。
lady-ship ということばはあるが、貴婦人たる身分というだけの意味。
lady‐hood ということばもあるが、これも貴婦人たる身分、風格といったことで、徳性的な意味がない。
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