第24節 欧米との流儀の融和
- 自分の家のやり方を、ここに申し上げるのは、失礼であるが、参考ということで、お許しいただきたい。
わたくしの家では、祖父以来、日本に来ている欧米人の扱い方を、つぎの3段階に分けてきた。
- 日本に来て、半年未満の欧米人には、ことごとく、こちらが欧米流にあわせて待遇し、日本古来の文物を、わからせようと努めない。別に、求められるものの説明を、拒否もしないが。
- 日本に来て、半年以上、1年未満の欧米人には、相手の咀しゃく力により、また、日本への対立感の程度によって、弾力をもって扱う。
- 日本に来て、1年以上の欧米人には、すべて、こちらが、日常、やっているとおりの扱い方をする。そうせねば、かれらも、日本に来ている意味を失うと考える。ただし、衛生の点だけは、別途、考慮する。
- ことばで申すと、A段階の欧米人には、こちらも、英語で、話をする。B段階の人物とは、チャンポンなことばで話をする。C段階の人物には、すべて、日本語で話をする。ただ、ゆっくりと、言う。
- 靴を脱がせる件も、A段階の人物のときは、大正時代など、こちらの和風建築物の玄関から、応接間までのあいだの廊下に、片側、じゅうたんを敷き、靴のまま、あがれるようにしていた。いまの小さな家では、そのようなスペースもなく、また、家中に、靴で入れるようにしてあるから、A段階の人物は、靴のまま、入れている。が、C段階の人物のときは、日本人来客と同じく、玄関で、スリッパに履きかえさせる。
- 食べ物で申すと、A段階の人物には、純洋食を出す。C段階の人物には、われわれが日常、食べているものを出す。で、その中には、ビフテキもあれば、ミソシルもある。串カツにしょう油をかけて出すし、サシミも平気で出す。チャンコ鍋も出す。タコの酢のものと、アンものの菓子と、ワカメのヌタを、どうも、連中は、苦手らしいが、すまして、こちらだけが、食べていると、人物によっては、ウマイウマイと、泣き笑いして、食べ出す。
- 日本古来の歴史と宗教については、A段階の人物には、求められても、とおりいっぺんのことしか説明しない。議論は、いっさい、しない。C段階の人物のとき、正しくない批判を受ければ、こちらは、絶対に、譲らない。ここは、日本である。日本のことを、日本人が説明しなかったならば、誰が説明するか。
- こん日では、日本でも、南方諸国でも、欧米人観光客が寺院の参観に来たときは、何をどう言おうと男女とも、靴を脱がせてしまう。これは、よいことである。第一、ハダシのおしゃかさまや僧侶の前に、靴を履いたまま、あがり込むことは、徹底的に、失礼である。
わたくしも、欧米人を神社仏閣に連れていったときは、A段階、B段階、C段階の区別なく、やっつける。
- さて、こちらが、欧米に出向いたときは、どうするか。これは、わたくし個人であるが、徹底的に、日本流を出さない。出したところで、見せ物になるだけである。見たければ、かれらが日本に来ればよい。本物を本場で見せることができる(それだけに、日本の観光産業を、もっと、発達させたいわけである)。
- 日本流を出さないのには、1つ、わけがある。あえて、裏がえしのところから、それを述べさせていただく。
日本書紀、允恭天皇の項を読んでみられよ。西暦450年ごろのことであるが、日本で、反正(はんぜい)天皇がなくなった。盟邦新羅(しらぎ)(現在の韓国の東半分)の国から、何名かの弔問使が来て下さった。日本政府も、もてなしたが、その帰り道に、かれらは、馬の上で、大和のうねび山とみみなし山が、よい形をしていたと、ほめあった。これを、「うねめ」「みみ」といっていた。あるいは、そのなだらかな形を、両手でなでるようにしたのかも知れない。これを、その馬を引いていた日本の馬丁が聞き、「こいつら、はやいところ、日本の采女(うねめ)に手を出しおったな。ゆるせない国辱だ」と勘違いした。采女とは、宮中の高級女官である。で、それを、日本の上司に告げた。気の早い、しかして、兵馬の権をあずかる日本の大幹部が、憤慨し、その使者たちを、全部、つかまえてしまった。聞いてみれば、なんのことはなかった。誤解はすぐ解けた。が、弔問使たちは、国に帰ると、つかまえられたことを、新羅王に報告した。それ以来、新羅から日本への定期的な贈り物の量が、ぐっと減った。親しさを感じ得なくなってきたということであろう。
そういう史実を平気で書いている日本の史官たちは、公平であったと思うが、しかし、日本人は、ときどき、外国人に対して、こういう自己流でしか考えないヘマをやる。それが、AD450年ごろに、すでに、始まっている。
- が、現代、われわれが、欧米に行くと、大なり小なり、この新羅の弔問使のような目にあっている。欧米人は、文明の点で、まだ、現代日本人より進んでいる。社会体質についても、そうである。が、自己流を絶対に正しいと思いすぎているのか、欧米流でないものを、ことごとく、野蛮視する。そうして、譲らない、それが、世界的に名のある文化人にいたるまで、そうであるから、がっかりさせられる。
で、わたくしは、欧米に行ったとき、日本流を、いっさい、出さない。
- これについて、もう少し、述べたい。
かれらには日本人が、すっかり欧米流にかわってしまったと思っているところがある。
ソニー、ホンダ、キャノン、ニコン、キッコーマン、オハヨー、サヨナラで、日本をイメージ・アップし、われわれを、隣の国から来たように、思っている。なるほど、われわれも、洋服を着、靴を履いている。で、勘違いされるのかも知れない。
つまり、われわれが、なにか、欧米流に見て、失礼なことを、知らないで行なうと、「日本人め、勢にまかせて、あなどりおった」とハラを立てる。
- その実例を申そう。わたくしは、1972年の夏に、北ドイツのある市立体育館を見学に行った。有名なゴールデン・プランの一環として建てられたものである。その室内プールを見せてもらったとき、履いていった靴の上に、そこの備えつけの靴カバーを履かされた。で、見学を終わり、事務室に戻った。ドイツのこういった施設の館長は、必ず、医学博士である。そこのドクターは、30代の終わりごろの女性であった。品のよい、巾の広い頭脳構造を持った、母親のように親切な、かなり美しい女性であった。
さて、わたくしが、靴カバーを、脱ごうとすると、はずみで、中の靴ごと、スッポリ脱げてしまった。わたくしは、片足靴下裸足で、床に立った。と、そのドクターは、つと、隣室に逃げ込んだ。もう1人、女性の助手がいたが、むこうを向いてしまった。そこへ、わたくしを案内してくれたドイツ人男性が、別室で靴カバーをはずして、手にさげて来た。わたくしは、「なるほど」と思った。で、こちらも、その別室に行き、靴力バ―をはずした。出て来てみると、女性ドクターも戻っていたが、ひどく、怒っている。もう、お前のめんどうは見てやらないぞといった感じになってしまっている。
どういうことかと言うと、欧米では、相手に、自分の靴下裸足を見せることが、すこぶる、相手への侮辱なのである。ことに、これを異性に見せることは、「さあ、はやく、いっしょに寝よう」といっている信号にあたる。
わたくしが、これを知らなかったわけではない。が、プールで、泳いでいたのは、男女とも、ハダシであったし、そこの母親のような、お医者さんのところであるから、まあ、よかろうと、ドクターの前で、靴カバーを脱ぎかかったことが、もはや、失礼であった。あまつさえ、靴下ハダシを演じたことは、いわば、女性医師の前で、ズボンを脱ぐとき、ポロッと、パンツの中味まで、わざと見せたようなことになっていた。
ここで、問題にすることは、かれらが、日本人を、まったく、かれらと同じ文化構造の持ち主になっていると勘違いしていることである。
そうして、日本人が、実は、そうなっていなくて、知らずに、かれらの失礼と見ることを犯したとき、これを、日本人が、自国力の勢いにまかせて、振る舞ったと見てしまうことである。で、欧米に行ったときは、まったく欧米流にすることが大切と考える。
- この話を、ある方々に申し上げたところ、わたくしは、次のような質問を受けた。
「世界文化の交流を図るためには、日本人は、欧米に行っても、日本流で押しとおしたほうがよいので、ないか」
で、わたくしは、お答えした。
「それは、相手によりけりであると思う。アメリカ人が、日本に来て、アメリカ流で押しとおしているのは、それしかできない固い頭の持ち主であるからで、また、多くの日本人が、それにあわせてあげる弾力的な頭脳を持つからである。もし、反対に多くの日本人が、固い頭を持っていて、欧米人のほうが、弾力的な頭脳を持っていたならば、われわれも、海外で、日本流で押し通したほうが、世界のためになろう。事実は、アメリカ人のみならず、イギリス人、フランス人、ドイツ人、いずれも劣らず、頭が固い。で、まだ、日本人のほうが、弾力を持っている。となったならば、日本式の考え方をわかってもらうためには、もっと、年月をかけるべきでないか。まだ、日本人には、回教寺院を見学するとき、酔っぱらって入って、リンチにあった者もいるくらいで、日本流で、世界を押し切ることに、賛成できない」
- さて、そうは申すが、別のドイツ旅行のとき、わたくしは、日本青年を30数名連れていった。ドイツのある都市で、歓迎ビール・パーティーをやって下さったのであるが、ビールがまわり出すと、ドイツ人ばかりが、音楽にあわせて、踊り出した。日本人は小さく固まって、見ているだけ。これではならじと、わたくしは、2〜3曲、踊ったが、目がまわった。かれらの踊りは大きいし、速いから、一休みしていると、日本で、聞きなれた曲が鳴りはじめた。ドイツ人数人が、いっせいに、それで、輪舞をはじめた。その文句も、日本語であった。ただ、発音が、すこし、おかしい。
“トゥキ・ガアー・デタデーター・トゥキ・ガアー・デターア・ヨイヨイ・ミーケ・タンコー・ノー・ウエヌィー・データー・アンマールィー・エントトゥー・ガー・ナガイーノーデー”
わたくしは、これは、われわれを歓迎するため、連中が、暗記しておいてくれたのかと思って、大いに、感激した。
が、聞いてみると、これは、ドイツ小学校5年生の音楽の国定教科書にあるのであって、現代ドイツ人ならば、誰でも、これを歌って踊れるということであった。
ここまでくると、日本の青年たちも、輪舞に加わった。感激して、涙をこぼしながら、踊っているのがいた。
日本人たちは、その曲のあい間に、“掘って掘って、また、掘ってえ。かついで、かついで……”。
こんどは、ドイツ人たちが、それを、囲んで、おやっと見ている。伴奏音楽まで、止まった。その部分が、まだ、ドイツの教科書になかったらしい。
人間とは、おもしろいものである。
- こんな風なことを、国対国で、さまざまにやって、50年、100年と経っていくうちに、お互いに、わかりあっていくものである。
で、決して、急いではならないということ。この節で申したいことは、この「けっして、急ぐな」ということである。
- 同じ目的に対する「作法」にも、国により地域により流儀の相違がある。
相手の流儀がわかるかぎり、相手の流儀に合わそうとされよ。その相手が、自分の流儀でしか、物事を考えられない人であるとき、なおさら、そうされよ。親の心。
その相手が、こちらの流儀にあわそうとするならば、その相手と協議して、そこでの共通流儀を定められよ。
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