総論
◆第10節 与えられた文明には心が乗りにくい
第10節 与えられた文明には心が乗りにくい
明治時代以来、日本人には、1つの病気にかかる者が、増えた。
たとえば、いままで、ガタピシの引き戸を使って、20〜30年は、こわさなかった日本人が、蝶番と、ドア・チェックのついた頑丈な開き戸を使うようになったところ、それを荒く扱って、たちまち、1年で、こわしてしまうといったこと。
その1つの原因は、引き戸より開き戸が扱いやすいことにあった。 であるから、その便利さを、より追求して、酷使するうち、こわしてしまった。
もう1つの原因は、引き戸であると、荒く扱えばこわれるが、開き戸は、いかに荒く扱っても、こわれないという信頼感を得て、それを過信し、荒く扱い過ぎて、こわしてしまった。
また、これを1つの権威と見て、反抗のため、これでもこわれないかと、わざと荒く扱って、とうとう、こわすことに成功したのであった。ヒステリー。
1つの文明が、自分たちの血と汗で得られたのでなく、上から、あるいは外から与えられたとき、人間は、こういった病気にかかりやすい。
このことは、各国の中学生にも言える。
学校のドアが便利なので、それを、もっと、能率よく使おうと思い、荒っぽく扱う。 学校のドアが頑丈なので、こわれっこないと見て、これにぶら下がって、こわす。 学校のドアのこわれないのが、しゃくにさわるから、努力して、こわす。
で、作法であるが、日本人のためには、こうした面についての作法が要る。 そうしなければ、ドアがこわれて、かなわない。
ところが、そういう作法を押しつけられたとき、日本人は、①いっそう、便利な生活を追求する自由を奪われたと思う。②粗悪商品のこわれやすさの責任を消費者に転化されたと思う。③体制の暴力であると思う。 で、ドアを丁寧に扱えという勧告に耳を貸さない。
自分で苦労して得た文明でないから、その文明を過信しているところに、しくじりの基本的な原因がある。
さて、その先がある。
欧米に行って、開き戸が、誰からも、はなはだ、そっと扱われているのを見てくる。 で、これは、欧米社会が、すばらしい精神生活の高さを持っている結果であると思い込む。 本当は、そうなのでなく、ドアを荒く扱えば、ドアが、早く、こわれるから、みんなで、静かに扱っているだけであるというのに。
別の例を考えよう。 ヨーロッパには、少なくとも、2千数百年におよぶ馬車の歴史があった。 で、その馬車は、のろのろとしか走らなかった。
1800年代後半に至って、まず、蒸気自動車を考えだし、1900年代に入るや、ガソリンの自動車を考えだした。
この自動車は、時速15km のものから次第に高速化し、時速150km のものを普通とするに至っている。
が、欧米のモータリゼーションは、80年間という時間を掛けて、徐々に、進んできている。
これに相まって、欧米の自動車運転作法は、はなはだ厳しく、互いに、よく守り合っている。
ところが、日本の馬車の歴史は、l868年からである。
その馬車が国民一般のものとして普及する前に、1920年ごろから自動車を導入し、1960年ごろから、急激なモータリゼーション段階を迎えた。
日本の自動車工業を、みずからの汗によって確立したものでないとは申さない。 が、現代日本のドライバーは、自動車の便利さに酔い過ぎていないであろうか。
自動車運転作法の守られないことが、おびただしい。 左からの追い抜き、正当な車間距離を保っている前後車の間に横から割り込む、等々。
もう1つの例を挙げよう。
諸君がホテル・レストランに実習に行って来られると、そのあと、教室での机・椅子の移動が素早くなられるものである。 そこまでは良い。
が、この教室の机・椅子を、はなはだ荒く扱われるようにもなる。
で、教室の机・椅子が、つぎつぎに、壊れてしまう。
学校の机・椅子は、頑丈にできていない。 ホテル・レストランの机・椅子は、頑丈にできている。
そのホテル・レストランの机・椅子の移動は、素早く行なわないと、つぎつぎの宴会に間に合わないし、ひいては、売り上げの低下を招く。
そこで学校の机・椅子も頑丈にして、ホテル・レストランの机・椅子の移動の練習を行なうのがよい。 わたくしは、はじめ、このように考えていた。
わたくしがこの学校に来てからのある年、アメリカの2〜3のホテルで、そこの従業員が机・椅子の大移動をやっているところを見た。
宴会の合間に、彼らは机・椅子を、はなはだ丁寧に、しかも、のろのろと動かしていたそうであるのに、その作業全体の能率は、日本でのホテルのものより速かった。
また、そこでの机・椅子は、日本のホテルの物より、きゃしゃにできていた。
わたくしは、これによって、ホテル従業員の頭のレベルの差を感じた。 で、日本のホテルマンの頭脳レベルが、国際水準に到達するために、あと100年はかかるという気がした。
その年、日本に帰って東京のある一流ホテルでの宴会場の模様替えを見たわたくしは、そこで、乱暴な素早さに気がとがめたので、その宴会マネジャーに質問した。 「もう少し、机・椅子を丁寧に扱えないでしょうか」と。 その回答は、次のようなものであった。
「当ホテルでは、机・椅子の償却期間を短くしてもよいような料金をお客さまから頂いております。それにもかかわらず、お陰様で、お客さまが当ホテルに殺到されるのです」
たまたま、その机・椅子を移動している従業員の中に、わたくしの知人がいた。 別の日に、その方は拙宅に遊びに来られた。
で、わたくしは、次のような質問をした。 「どうして、あんなに机・椅子をたたきつけるように動かすのですか」 で、その回答は、次のようであった。
「わたくしども従業員には、客の前で物静かにしていなければならないことからくるストレスがたまっています。それからですね、給料は安いし、それだけ、会社は儲けているのでしょう。上の人たちも、ただ、速く、速くと言いますからね。その人たちも会社の品物を大切にするよりは、売り上げを多くするほうがボーナスが増えるでしょう」
諸君には、まず、学校の机・椅子を大切に扱っていただきたい。
その諸君はホテルの現場で、囲わりが乱暴を行なっていれば、それに同調されてよい。
その諸君が机・椅子の移動を監督する立場に立たれるようになったとき、欧米のホテルマンのやり方を意識していただきたい。
諸君は、経済がカネだけのものでないことに気づいていただきたい。
この日本のホテル・レストランの机・椅子の壊れやすさは、詰まるところ、日本人がみずから築き上げたのではなく、他から与えられた文明を享受している歴史に根ざすものがあるとみる。
日本人は、エコノミック・アニマルと呼ばれている。これは、ただ、よく働く人たちという意味ではない。
これは、他国民のしあわせを無視して、自分たちだけしあわせになろうとしているという意味を含んでいる。
これを、天物の尊重と互助システムの育成を通じて、経済の尊厳を考える能力の乏しさと見るのがよい。
「理論と実際は違う」、「学校と現場の現実は違う」と言ってうそぶいている人物は、脳タリンである。
もう1度言う。
急激に、便利な品物を他から与えられたとき、人は、しばしば、その便利さに酔い痴れてその便利な品物を壊してしまうといった症状を示すことがある。 その便利さが、自分たちの血の滲むような努力によって得られたものでないとき、この症状は激しい。
また、その便利さを与えた権威者たちに対する甘えと反抗が、これに絡み付く。