第11節 ゴツイ人物のやり方
- 作法という「型」を習うとき、ゴツイ人物は、こまることになる。
- で、ゴツイ人物は、作法の「型」を放棄しやすい。
- が、まったく、放棄しても、世の中を、まかり通り得ないことだけは知っている。
で、自分で、学校のとは別の「型」を求めることになる。
- こういうゴツイ人物の悩みは、実のところ、わたくし自身の過去にあった。
- が、わたくしは、その過去、ある日、横綱と大関にお目にかかった。関取りは、裸体で、闘争するのが、職業である。
が、その方々の礼儀作法の厳しさに打たれた。
「ごっつあんでごわす」ではあったが。
巨躯、こまかしい動作は、不可能であった。
では、独特の作法の「型」をつくりあげておられるものであろうかと、観察していたが、まったく、普通の「型」を行なっておられた。
その不器用さには、かえって、味があった。
- もう1人、こんどは、お名前を挙げる。ジャイアント馬場氏である。1970年前後に、列車の中で、巡業中のかれといっしょになった。2時間ばかり、食堂車で話していたのであるが、かれの礼儀正しさに、こちらが、参ってしまった。
ここにも、独特な「型」はなかった。ふつうの作法の型を、忠実に行なっておられた。
- 関取りに、レスラーでは、特殊な例を挙げすぎたかも知れない。
が、世に、多くのゴツイ人物がおられる。仕事の上で立派な人物というものは、ハンで押したように、ふつうの「型」の作法を行われる。または、行なおうと苦心しておられる。それが、人々に、はなはだ、好感を抱かせるものとなっておられる。
- で、わたくしは、諸君の中で「オレは、ワイルド・スタイルだけで、押し切って見せるぞ」と決めてかかっておられる方を無智としか見ない。