第12節 日本料理の流れ
- 日本料理の形は、奈良、平安朝と、次第に確立してきた。
で、日本料理には、本膳料理、懐石(宴会会席との混同をさけるため、以後、茶懐石料理と言う)料理、会席(茶懐石との混同をさけるため、以後、宴会料理と言う)料理の、3つの形がある。
- 平安時代までは、味つけにも決まったものがなく、各自が勝手につけて食べる場合が多かった。
食卓には、必ず、塩や酢や、味噌と醤油の中間である醤(ひしお)などが、使いやすいように、いちばん、手前に置かれていた。
ご飯は、蒸してつくった強飯(こわいい)、いわゆる、おこわであった。
- 平安末期になると、味つけに、味噌、醤油が使われるようになった。
そこで、煮る料理、温かい料理が出せるようになり、一膳、一膳、頃合を見はからって、配膳できるようになった。
こうして、現代と、あまり変わらぬ形を整えるに至った。
その料理方法も、ことによっては、現代の日本料理より、はるかに、手のこんだ、美味のものを作っていたと言われる。
- ただ、その配膳法と作法になると、平安時代の公卿社会より、鎌倉時代の武家社会のほうが、次第に、定型を、厳しく追求した。
- これは、中世ヨーロッパにおける肉を切るという仕事が、解剖知識を必要とし、きれいに切り分ける繊細な感覚が要求される高貴なものであったのと似ている。
称号も Ecuyer Tranchant 「エキュイエ・トランシャン」(切り分ける貴族)と呼ばれ、食べ物を、客の目の前で切って見せるのが、当時の貴族の教養であった。
- ところが、いくつもの流派を生じ、わからなくなってきている昔の形を求め、1つの体系に編さんすることを室町幕府から命ぜられたのは、当時の大名の中の伊勢家、今川家、小笠原家であった。
- これらの武家礼法諸家は、立居振舞、さらには、食事作法、その他万般の作法を整理した。