第5節 「われわれ」の伸縮
- 作法とは自分のためでなく、まわりの人々のためであると申すのであるが、いま少し、はっきり申せば、作法とはより内なる「われわれ」のためでなく、より外なる「われわれ」のためのものである。
- このとき「われわれ」なるものについて、わたくしどもがはっきりした考えを持っていないと、作法の基本が総崩れとなる。
そこで、この「われわれ」なるものについて考えたい。
- いま、自分がある明確な集団の一員であるものとしよう。このとき、集団を「われわれ」という概念で捉えることができる。
- つぎに、全人類を一個の集団と見なし、この全人類を「われわれ」という概念で捕捉することが、次第に、できつつある。そこまでは良い。
- ところで、全人類よりは小さいが、しかし、一家族とか、町内仲間とか、クラス仲間とかいった、明確で、小さな「われわれ」よりは大きい集団について、これを「われわれ」として把握する能力が、必ずしも、できあがっていない。
- さらにである。いま、諸君が広い野原に立っておられるものとする。
そこには、知らない人が、いっぱいいるし、その人たちは、たえず、増減しているものとする。
このとき、諸君と視線を交わし得る範囲の人々で、それも、絶えず、入れ代わっている人々を「われわれ」の概念で捉えることは、いちばん、難しい。
- 次に、こちらのラグビー・チームと先方のラグビー・チームとで、試合するものとしよう。
試合開始前にはチーム同士、お互いに、挨拶もするが、試合中はこちらのルール違反に因ったのでないかぎり、相手が死んでも、こちらに責任がない。
つまり、殺し合いスレスレまで、やってよい。で、試合が終わると、また、にこやかに互いに握手する。
あるいは、試合後、両チームそろって、飲むならば、まったくの友だち同士となる。
スポーツマンたる者は、この「われわれ」の大きさの伸縮を身に付けていなければならない。
武士道、騎士道など、いずれも、これと同一のベースに立っている。
現代日本人は、個人間、家族間、企業体間において、この「われわれ」の伸縮の訓練が不充分である。
- ここには、前提条件として、こちらが「われわれ」の観念を、相手の上にも広げているとき、相手がそれを意識しないならば、こちらとしてどうすべきかが、はっきりしていなければならない。
また、相手との競争中に、こちらがルールを守っているのに対して、相手がルールを守らないならば、こちらとしてどうすればよいかといった問題もある。
「われわれ」の観念の伸縮のためには、これらの問題についての処置の仕方が明確でなければ、こちらは単なる「お人好し」となる。
- ともあれ、現代日本人は「われわれ」の伸縮が弱い。諸君は、まず、この「われわれ」の伸縮につき、強くなることを工夫したまえ。
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