第33節 作法とヤング
- たとえば、欧米作法では、社交の場の中心は「家庭」となっている。日本も、住居水準が上昇するにしたがって、次第に、そうなって行こう。
このとき、接待する家庭人の中で、責任を執り得、また、執らなければならないのは、「成年者」のみである。
- 言い替えると、息子、娘も、満20才に達するや、父親、母親とともに、または、父親、母親にかわって接待主役をつとめる。
客としても、そのつもりで、これらの息子、娘を扱わなければならない。
- ところが、満20才に達していない息子、娘は、いかに、図体が大きくても、また、ませたことを言っても、子供として扱われる。
- さて、これが、職場となると、事情が一変する。ここには、「年令」というものがなくて、すべて、成人扱いである。働く者としても、15才以上がいる。
客たる者が未成年者であっても、大人らしい能力を示している場合にかぎり、店の者は、これを大人として、扱わなければならない。
- これらを通じて眺めるとき、15才から、満19才までの者は、自分を、あるときは、大人として、あるときは、子供とするという使い分けが、要るわけで、かえって、本当の大人より、難しい。
- 次の話。まい年、新しい1クラスの中の5%前後の方は、作法嫌いであられる。
「ボクは窮屈なことが嫌いなんで」と言われる。で、自分でもラフなスタイルと、ラフな言葉使いと、ラフな動作で押し切ろうとされる。また、人から丁寧にされるや「そうでござんすかね」と肩をはずされる。
- しかし、この傾向は、講義時に約半数の方々にうかがわれる。
- ところが、この方々は、自分が、現代風という1つの特殊な「型」の中に生きていることに気づいておられない。
- 大部分の日本のホテル・旅館も、現代日本風という「型」の中にあるからこそ、客との摩擦も少なく、やっていくことができている。
- ところで、本校は、民間外交官を育てようとする意思を持っている。
- さらに申せば、現代日本人の風を、少しでも、国際的な常識の裾に近づけようとする、矯風意思を持っている。
- そこで、わたくしという作法講師と新入生との間に、心理的摩擦を生ずるのは、やむを得ない。
- 諸君の中のいくばくかの方が作法を行なえば、人間味のあるつき合いができなくなると申されるのは、現代日本風を離れて、現代日本の中に生きていることの疎外感をうったえられるのであるから、もっともであるし、それを、あえて、作法的に振る舞えと申すわたくしもつらい。
- しかし、日本社会全体が、年々、わずかずつ、国際的常識の線に向かって、進んでいっていることを無視されてはならない。
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