第33節 扇
【参考】扇の歴史
- 漢字で扇と書くと、「うちわ」の意味と「おうぎ」の意味と、両方になる。
元来、中国では、「うちわ」があるだけで「おうぎ」はなかった。
扇(おうぎ)は、「うちわ」とは異なり、折りたたむことができる。
「おうぎ」は、a. 風をおこし、b. 人間がかたちを正すときに使う道具である。
- 扇(おうぎ)は、日本人の発明品であり、西暦900年代ごろから日本で創製された。
中国へは、北宋(西暦960年〜1127年)の時代に、日本から輸出され、倭扇といわれた。
- 扇(おうぎ)が、中国からヨーロッパに渡ったのは、おそらく、西暦1400年代、中国では、元の時代と思われる。
けれとも、ヨーロッパ人の服飾の中に溶け込むことは、現代まで、まだ、ない。
これに比して、FAN(うちわ)のほうは、同じ元の時代に中国からヨーロッパに伝わり、西暦1500年代には、ヨーロッパの女性の服飾の中に採り入れられ、1700年代にはダチョウの羽などを使ったぜいたく品となった。
FAN( ファン)という発音は、中国語で「うちわ」を(ファン)と読んだことからきている。
- 日本での扇(おうぎ)の歴史であるが、西暦988年(永延2年)には檜扇(ひおうぎ、板をとじ合わせた扇)と蝙蝠扇(かわほりおうぎ、紙を張ったおうぎ)との2種が存していた。
2者ともに宮中服飾となった。檜扇は冬扇、蝙蝠扇は夏扇ともいい、それぞれ10〜3月、4〜9月に用いられた。
藤原時代には両者とも華美を尽くし、また、多くの様式が生じ、扇の最盛期となった。
- 檜扇(冬扇)は、幾枚かの檜の薄板を糸で綴じて造る。
束帯のときは、手に笏(しゃく)を持つ。
が、直衣(のうし)、衣冠(いかん)、狩衣(かりぎぬ)のときは、扇を笏に代えた。
はじめに この檜扇ができ、夏冬ともに用いられた。
後世、蝙蝠扇ができ、檜扇は、もっぱら、冬の御料となった。
また、女子が大儀のときに持つ檜扇は、古くから袙扇(あこめおうぎ)といい、檜扇とはいわれなかった。
檜扇の板骨の数は、身分により異なる。
親王以下3位まで、25枚、5位は23枚、6位以下12枚を用いた。
綴糸(とじいと)は白絹糸である。
また、絵絞様は、檜扇を所持する人の老少により差があった。
天皇、皇后、皇太子、皇太后は蘇芳染(すおうそめ。蘇芳とは、マメ科の潅木である。
その心材および、さやは、煎じて、上代から、重要な赤色染料とされた)の赤檜扇を用いられた。
そのほか、男は、柾目の素地の檜の板をとじた白檜扇を用い、それに、式次第なとを書いた。
また、年少者と老人は、檜または杉の板目の板をとじた上に、蓬莱文様、遠山なとの画を描いた横目扇を用いた。
(当時の製材能力は、進歩していたことがうかがえる)
老人は、べつに、香染(こうそめ。丁子の煮汁で染めた、薄赤に、黄を帯びた色のこと)の檜扇を用いた。女は、板に胡粉を塗り、金銀、砂子なとで装ったものを用いた。
また、そのうえに種種の大和絵または唐画(からえ)が描いてあった。
絵具は、胡粉、黄土、金銀の泥、金白、朱、丹、緑青、群青、黒などを使った。
- 「大鏡」(平安時代の歴史物語)に、檜扇の様子が次のように書かれている。
「扇ともして参らするに、こと人々は骨に蒔絵をし、或は金銀、沈紫壇の骨になん、筋を入れ彫りものをし、えもいわれぬ紙どもに、人のなべてしらぬ詩歌や、また60余曲の歌枕、名あがりたるところなどを書きつつ人々参らするに、例の上の殿は、骨の漆ばかりをかしげに塗り、黄なるから紙のした絵ほのかにをかしき程なるに、おもての方には楽符を麗しう真にかき、裏には御筆とどめて草にめでたくかき奉り給えり」
まことに、自由な、時代感覚特有のものができていたことがわかる。
- 蝙蝠扇(夏扇)は、檜扇の骨を細くして、紙を片面だけに張ったものである。
で、扇の裏面は、扇骨が見える。
扇骨の数は、平安時代にあっては、5骨から数骨までであった。
(けれども、室町時代には、12本くらいになった)
扇面には、物語画、そのほかの絵画、または、和歌、詩文などを書いた。
夏扇は、服制上の規制がない。
- 平安時代末になると、女房檜扇に、糸田面檜扇と呼ばれるもの、水扇または鏡表骨檜扇と呼ばれるものがあらわれた。
夏扇には、皆彫骨扇(みなえりぼねおうぎ)または透扇(すかしおうぎ)といって扇骨に透かし彫りのある扇ができた。
これは、年少の公家女房らの持料であったが、後には武士に用いられ、やがて、軍扇へと移行する。
これらの数種の扇は、鎌倉、南北朝時代をへて室町時代初期まで存した。
ことに、皆彫骨扇は、室町時代に対中国輸出品となった。
- この時代には、日本から輸出された扇を、明、高麗で模倣し、明から日本に逆輸入された。
これを唐扇といった。扇を扇子または五明というのは、この時代からはじまった。
唐扇は、扇骨の紙のなかに差し入れられ、扇の表、裏、いずれからも扇骨が見えなかった。
- 日本で、これを模するようになり、従来の夏扇(蝙蝠扇)の形式が一変して、末広、ぼんぼり(末広に対し、扇の親骨の先端を内側にそらせて、中広がりとした扇)、鎮折(しずめおり。扇をたたむとき、先端が締まるようにする折り方)の3型式を生じた。
以後、紙張りの扇は、この3型式のいずれかに属することとなった。
- 室町時代になって、公家の各家々はそれぞれ5摂家の1つに所属することになり、5門流が生じ、扇も5門流の様式に分かれることになった。
その差異は、主に、扇骨上の透彫りのかたちによっている。
また、室町時代には、近代の諸遊芸発生の時期で、したがって、それらに用いられる扇も、また、このころから、しだいに、その様式が定まった。
- 江戸時代には、武家の服制も一定し、範を公家有職によったから、自然に、扇もまた公家有職におけるものと大同小異の制が設けられた。
社寺は、また、それぞれ故実をとなえ、特別なきまりのある扇を用いることとなった。
- 桧扇は、鎌倉時代に、横目扇、女房桧扇に飾糸、付花ができ、室町時代にはきわめて大形となって、単に装飾の用と化した。
この時代以後、重要な儀式以外は、末広を檜扇に代用させることになり、桧扇を使うことは少なくなった。
- 民間では、江戸時代以後、種々の扇ができ、朝鮮扇、唐扇の輸入品や、その模造品も用いられた。
なお、民俗習俗による規制がある扇は、少ない。
- 明治時代以後になると外国輸出用の扇があらわれた。
16世紀に中国扇がスペインに伝わり、のち、ヨーロッパでの扇の製作が興って、数10骨の扇ができることとなった。
そして、日本の貿易用の扇が、この形式によって造られることとなった。
- 大正年間に、これが内地用となり、以後、こんにちの、夏の一般用の扇の形式となった。
古来の形式は、儀式に用いられるようになってしまった。
- 古来の扇の遺物として、佐大神社蔵女房桧扇、厳島神社蔵葦手絵女房桧扇、伝高倉天皇御寄進5骨蠕幅扇、安徳天皇御遺物小形桧扇、四天王寺蔵扇面写経料紙、速玉神社蔵檜扇、熱田神宮蔵皆彫骨扇などがある。
(平凡社世界大百科辞典その他から)
【説明】扇の用途
- 現代では、男子が羽織袴を着たときに、扇を、袴のひもにはさみ、また、手に持つ。
江戸時代の、「年中諸大名へ御成之記」に、「公家方にては御対面の時も手に持つ。武家の衆に限り御前へ持つまじき覚悟せり。腰に差すは此の限りにあらず。ただし御前に開き使うべからず」とある。参考に供したい。
そのほか、茶道を行なうときに使う。
その使い方は、お辞儀をするとき、真正面に置く。
また、掛物などを見るときに膝の前に置く。
夏にあっては、実際に暑いから、涼をとるために使う。
また、舞を舞うときにも使う。
- 平安朝では、人を呼ぶときに扇を打ち鳴らすこともあった。
「竹取物語」では、竹取の翁が、門外で扇を鳴らしている。
また、「源氏物語」にも、「扇を打ち鳴らす云々」とある。
- また、扇は、物を払ったり、受けとめたりする小さな武器、棒のかわりにも使われた。
それが丈夫になり、鉄扇となっていった。
で、室町時代から江戸時代にかけて、男は、鉄扇を持って歩いた。
また、ひとつは、紙扇を持って歩いた。
女も、紙扇を持って歩いた。
- 物品授受のとき、扇子の上に物をのせて行なうことがある。
これについて、思い出されることは、室町時代の武人であり、歌人でもあった太田道灌の「山吹の里」伝説の中の一情景である。
とある山里を訪れた道灌が、おりあしく、雨に降られ、ある苫屋(とまや)にて、蓑(みの)を所望したときのことである。
そこの主である娘は、山吹のひと枝を、うやうやしく、道灌に献上すると、そのまま、奥にひきさがってしまった。
そのときは、わけもわからず、しかたなく立ち去った道灌が、のちに、ある勅選集に、「七重八重、花は咲けども、山吹の、みの(「実の」と「蓑」のかけことば)ひとつだに、なきぞかなしも」という歌があることを知った。
で、道灌は、そのとき、娘のたしなみに、たいそう感心するとともに、我身の不勉強を恥じたという。
この道灌の「山吹の里」伝説の中で、山里の娘が、道灌に山吹をうやうやしく献上したのは、扇の上に載せてであったということである。