明治の館でおもてなし 新むつ旅館
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1996.1.1 デーリー東北

新むつ旅館
明治の遊郭街しのばせる


 八戸市小中野に一つの時代を象徴した建物がいまなおしっかりとその姿を残している。
 かつて紅灯を連ね弦歌に明け暮れた"ハマ"の歓楽街・小中野新地(現小中野六丁目)の一角にある「新むつ旅館」がそれである。
 明治 31年に創建され、「新陸奥楼」の名で長い間、貸座敷(遊郭)として営業。昭和 32年の売春防止法制定を機に旅館に生まれ変わり現在に至っているが、百年にも及ぶ歳月を経てなお、そのたたずまいは当時のままを保つ。時代の流れとともにすっかり様変わりしてしまった街並みの中に、取り残されたように建つ古い建物が、逆にこの街が持っていた華やかな歴史、生活の鼓動を脈々と伝えている。
 幕末時代から船着場のあった小中野は、遠くは横浜から北海道、三陸地方各港などと商取引が盛んで、回漕問屋や船宿などが多数軒を連ね、自然と船乗り相手の女郎屋も並んだ。
 明治維新後、風紀上の問題も考慮され、表通りからはずれた新地、浦町に遊郭街が形成された。
 新地に遊郭が開業したのは明治 28年。当時、八戸地方では"花柳のちまた"としてこの小中野町の新地かいわいと鮫村(現鮫町)が両雄で、とくに小中野は東北屈指の歓楽街とされ、全盛を誇った。多い時で 33軒の遊郭が立ち並び、120人もの芸者、半玉」(芸者見習い)がいた。
 灯ともしごろともなれは、客を乗せた人力車や、見番と料理屋を行き来するあでやかな芸者たちでにぎわいを見せ、文字通り不夜城のようであったという。
◇◇◇
 年配の男性にとってはなんとも懐旧の情がわいてこようが、今となっては時代の流れとともに変ぼうした街並みに、その面影を残しているものはほとんどなくなった。
 しかし、そこにたった一つ「歴史の生き証人」のように建っているのが、新むつ旅館だ。
 新地の遊郭街をしのばせる最も古い二階建ての木造建築。明治 31年 7月 3日に八戸警察署から貸座敷の許可を得て以来、度重なる災禍にもめげることなく、まもなく 21世紀を迎えようとしている今日まで、き然とした姿で時代を見続けてきた。
 商売繁昌、魔除けの願いを込めたと思われる鱗模様の軒下に、厚い格子窓。昔ながらの玄関をくぐると、薄暗さの中に凛とした空気が漂う。高所にしっかりと神棚が奉られ、頭上を見上げると、天井から差し込む吹き抜きのような明りに驚かされる。
 板の間の廊下が一歩一歩、歩く度にきしむ。
 黒光りするしゃれた手すりに誘われて二階への階段を上ると、途中の踊り場からY字型に二手に分かれた。渡り廊下でつながれた各部屋。
 屏風、鶴や橘をあしらった釘隠しなど、すべて当時のまま。まさに映画で観たような遊郭の雰囲気が目に浮かび、あたかも自分が当時ヘタイムスリップしたかのような錯覚を覚える―確かに一つの時代の顔がそこにあった。

旅館に隣接していた土蔵(明治 40年建造)を解体した際に発見された大工の墨書。当時の遊興料は1等で2円。花代は1時間25銭で、大工の1日分の手間賃と同額だった。物価は現在の約 3500分の1。コメ、地酒などの料金も記されており、当時の資料として貴重だ。
◇◇◇
 新むつ旅館を経営しているのは川村久雄さん( 64)。八戸高校在学までここで過ごし、当時まだ貸座敷だったころの思い出を「毎日が宴会騒ぎのよう。子供ながらにとてもにぎやかだったことは忘れません」と懐かしそうに語る。
 昭和 56年、東京などでの会社勤めに別れを告げ、郷里八戸へ四代目主人として戻ってきた。数年前に同建物に新館(七部屋)を併設し、紅美子夫人らとともに旅客を温かくもてなしている。
 現在、宿泊客として年間約 2600人が訪れている。主にビジネスマンなどだが、東北各地や東京などから明治建築の貸座敷跡に興味を持ちやってくる人たちも多いという。ちなみに料理などの器として使われているのは、明治時代からそのまま残っている輪島塗や九谷焼、沈金彫といった貴重なものばかりで、「お客さまに大変喜ばれています」と川村さん。
◇◇◇
 それでも、川村さんが頭を悩ませていることがある。旅館の維持の問題だ。
 確かにこれまで持ちこたえてきた頑丈な造りとはいえ、老朽化が年々進行。
 近年、民間の有志や学識経験者らによる市内に現存している歴史的建物や建築学上貴重な建物を保存、後世に伝えていこうという運動が展開されている。八戸を語る「新むつ旅館」も例外ではない。

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