第29節 作法と風習
- 相手に不快感(不安惑、恥、醜悪惑)を感じさせないことを考えるとき、作法の中には相手の風習に合わせるという仕事がある。
- この風習は、説明を聞かなければ他地域の者が見落としやすい。
- 風習には、次のような種類があろう。
- 宗教風習
- jinx(縁起が悪いとされていること)と taboo(たたりがあるとされていること)。
つまり、禁忌(きんき)。それから、その地域にあった故事によって、それが、なかば、宗教的な感覚で避けられている事柄。あるいは、せねばならぬことがら。
- 性風習
- 「性器」「性交申込み」をあらわす、その地域特有の記号となっている言葉や仕草
- 職別風習
- その地域でのみ、めいめいが何者であるかを示す記号となっている言葉使いや仕草や服装
- 全動物はするが、人間だけが、それをしないことを約来しているのは、人間の風習である。たとえば、強姦。
全動物はしないが、人間だけが、それをするということも、人間の風習である。
たとえば、火を使うこと。
が、これらは、人間として、みずからの風習と考えない。
- これが、全人類にわたらない地域社会で行われたり、禁忌されたりしているとき、これを、第三者は、風習と見る。
- が、そういう風習の中にも、第三者が見て、その地域にある物理的に、やむを得ない事項は、「もっともだ」ということで、風習から除外することがある。
たとえば、寒地では、男も女も子供も、朝酒を飲む。つまり、身体を、中から温めないと、寒い朝は、歯の根もあわない。
鹿児島県下で、朝寝・朝酒・朝湯が大好きであれば、これは、アカン。
福島県会津では、冬以外はアカン。小原庄助氏は、冬以外も、そうであったから、歌にされた。
しかし、北欧に行けば、夏以外は、みんなが、小原庄助氏であり、小原庄子さんである。
暖房は、会津から北海道から北欧までを、冬も小原庄助氏でなくてよいようにした。
それでも、まだ、朝寝・朝酒・朝湯を励行していれば、これは、風習と呼び得る。
- その地域社会として、物理的必要がないにかかわらず、地域内の約来として守っている事項が、いっぱいある。これは、風習中の風習である。
- 風習は、徐々に、なくなっていく。
それは、無意味であることが当該地域の人たちに理解されたときに、そうなる。
また、1地域の風習で、それを全人類が行なっても、全人類を益するものであることが、全人類に理解されたとき、全人類に広がり、風習でなくなる。
で、いずれにせよ、風習は、徐々になくなっていく。
- いま、無意味な風習をなくさせることについて考えてみよう。
このとき、「こういうことをするのは、もう、よしなさい」というケースは、案外、簡単に、やめるものである。最も、簡単にと申しても、法規で禁止せず、勧告程度によったのでは、すぐに、30年ぐらい、かかる。
- 反対に「こういうことを、キミたち、いけないことと思っているのは、愚かなので、こんなことは、構わないのだ」というケースは、当該地域の人たちが、「構わないらしい」と思うことから始まって、まったく、気にしなくなるのに、200年は、かかろう。
- これらのタイムの長さを踏まえていなければならない。
いかに、情報伝達機能が進歩しても、人間の心の奥底に、こびりついているものごとは、外から、「いけない」と言われるほど、また、「かまわない」と言われるほど、より奥底に、潜み込み、凝り固まるものである。それが、自然に、融けてくるためには、即製の洗脳ぐらいしたところで、ダメである。
で、風習は、これから30〜50年間、なに1つ、変わらないと、決め込んでおくほうが、ケガが少ない。
- 国際交流が、日々、激化し、文明の伝達が、日々、速くなっていっても、人心の底にあるものが、変わるのに、どうしても、30年から200年は、かかるという社会生理を前提としてみよう。このとき、この国際交流の巷(ちまた)に、よろめく生涯を送ろうとする観光産業マンは、東のものを東、西のものを西と割り切って、その両方を、使い分けることがよい。風習打破のための矯風的な活動には参加せず、と申して、風習固執の側にも立たず、世の変化に応じて、みずからも変化させていくといった姿勢がよい。
ここらあたりに、割り切ったものを持たねば、とうてい、観光産業マンとして、生涯を、まっとうし得ない。
- で、まだ、ある。
わたくしは、ロンドンで、あるホテルマンと話し込んでいた。かれは、わたくしに、「英語を世界語として認めよ」と言う。わたくしは、それを、「英米人のひとりよがりである」と言った。イギリス人は、頑固であるから、譲らない。で、わたくしは、妥協案を出した。「たとえばである。アルファベットを表音文字と見るかぎり、少なくとも、こん日の英語に、“Q”の文字は要るまい。Question などは、Kwestyun と改めればよい。
そういった改正を、英語が思い切って、やっていくならば、あるいは、英語の国際性も出てこよう。でなければ、武力で、粗悪な自分の風習を、外の者に押しつけているだけだ」と。かれは、改まって言った。「その意見は、おもしろい。イギリス政府に出向いて、言ってこい」。わたくしは言った。「ああ、どこへでも言うさ」
そこまではよかったが、そのあと、かれは、シンミリとなった。で、いわく、「やれやれ、ホテルマンの言葉は、増えるばかりだ」。わたくしは、「どうして?」ときいた。かれは言った。「ある日、政府発表で、Kwestyun に変わる。しかし、Question のほうを使うなという禁止令が出るまでに、50年ぐらいは、かかるであろう。そのあいだ、イギリスのホテルマンは、相手によって、Kwestyun と Question を、使い分けてゆかなければならない」
これは、その地域で、風習が打破されていくときの、その地域での観光産業マンの被害状況ということである。
【参考】
- 「右側を上位とする」ことは、洋の東西を問わず、一致している数少ない風習の1つである。
- 目上、女性、年上、訪問者に自分より右側を歩かせ、右側に立たせ、右側に席を与えるということ。
Left hand lady is not a Lady.
- 欧米では自分の妻でも、人前で、自分の右側を歩かせ、自分の右側に立たせる。
- 自国の国旗と相手国の国旗を掲げるときは、相手国の国旗を右側にする。
- では、向こうからAがやってきたとき、こちらから行くBは、Aのどちら側を、通り抜けるのがよいか。
- 日本では、昔から、左側通行を礼としてきた。つまり、お互いに、相手に対し、慎んで自分としての左側に、よけた。
- ところが、ヨーロッパの多くの国では、右側通行を礼としてきた。
つまり、お互いに、相手から見ての右側を犯さないため、相手の左側、つまり、こちらとしての右側によけた。
- このどちらが、ほんとうの作法に適っているかというテーマ。
左側通行は、自分本意の慎み方であるとも言えるし、右側通行は、媚びすぎているとも言える。
- わたくしは、日本が戦争に負け、力ずくで、左側通行を右側通行に変えさせられたことに腹を立てている。
しかし、作法としては、相手を中心に考えるのを優れていると見る以上、右側通行のほうがよい。
- 次の例。東洋では、身分の下の者は、身分の上の者の前で、頭を上げず、ニコリともせず、ものを言わないことを礼としてきた。
人は、おのずから、恐れ慎むとき、そうなる。
- ところが、西洋では、身分の下の者は、身分の上の者の前で、腰を低くしながらも、頭だけは上げ、ニコニコし、なにか、挨拶言葉を言上するのを礼としてきた。不自然ながら、精一杯の努力というところ。でなければ、狡猾な媚といったところ。
- わたくしは、東洋人であるから、西洋流のベタベタした機嫌とりを嫌う。偉い方の前に出たときは、うつむき、緊張顔をし、物を言っても、モグモグしていた。真直ぐな気持ちであれば、そうなる。
しかし、偉い方は、ときどき、わたくしの慎みに対して、かえって、顔をこわばらせられることがあった。
- そのうち、わたくし自身がオジサマと言われる年令になってきて、はじめての若い方に、お目にかかったとき、若い方が、うつむき、緊張顔をし、物も言われないのを見たとき、わたくしにとっては、ものすごく寂しく、孤独さを感じた。
で、わかったことは、ただ、慎んで、下を向いているのは、子供にだけ許される慎み方であるということ。
- ここにも、ただ、慎むということと、相手の気持ちになって慎むということの差がある。
- が、つぎの例。わたくしは、ときどき、インドのご婦人がたへの接待をおおせつかることがあった。
で、一生懸命、心を尽くして、ご接待申し上げたつもりであったが、よく、この貴婦人方から、ぐっと、にらみつけられた。で、はじめのうちは、こちらに、なにか、落ち度があったのかと悩んだし、ときには、なんという高慢な人たちであろうと思った。
そのうち、あるインドの老婦人と親しくなったので、この点につき、質問してみた。で、得た回答は、意外なものであった。次のとおり。
「インドでは、女性が、自分の親兄弟や夫以外の男性に笑顔を見せることを、女性としての道に反すると考えるのです。
しかし、親切にしていただいた男性がたに、何の意思表示もしないのは失礼です。そこで、心から、その男性をにらむということがあるのです。
それは、国民が国旗に敬礼するとき、誰も、ニコニコなどせず、心から、その国旗をにらみつけるのと同じです。インドの女性は、目が大きいので、日本の男性は、これに、にらまれると、恐いかも知れませんね。
林さん。あなたが恐いと思われたときほど、彼女たちは、心から、あなたに、ご挨拶しているのですよ。
それからね。人は、みんな、神さまの分霊でしょう。ですから、相手の方に宿る神さまの分霊を拝むとき、まじめな顔をしないでいられますか。
スマイルで、ご挨拶することなどは、神から離れた人物のすることですよ」
わたくしは、キリスト教での清教徒が、相手に対して、ニコリともしないのと同じであるなと思った。
- が、こうなってくると、ややっこしい。もう1度、左側通行をも、偉い方の前で、うつむいて、物を言わないことをも肯定したくなってくる。
- で、いまでは「強い慎み」と「普通の慎み」を分けて考えるようにしている。
で、「普通の慎み」のときは、やはり、相手の好まれるところに合わせるということである。
大部分の場合は、「普通の慎み」で行ない、特別な場合にのみ、「強い慎み」を行なうこと。
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