第1節 公物と私物
【通解】
- 欧米のある国で、わたくしは、各国代表者たちと、いっしょに、ビールを飲んでいた。
で、たまたま、みんなのために、紙と筆記具が必要となり、わたくしは、自分のメモ帖とボール・ペンを提供した。
そのメモ帖に、そのボール・ペンで、わたくしの、となりの人が、何かを書いた。
すると、そのむこうの人が、「それは違う」と、また、書き加えた。
こんなことをしているうちに、わたくしのメモ帖とボール・ペンが、どこかに行ってしまった。
その会合が終わってから、探したが、どこにも置いてないし、落ちてもいない。
つまり、誰かが、持っていったのであった。
翌日、探し尋ねて、持っていった人を知った。
その人を訪れて聞くと、かれは、言った。
「たしかに、あずかった。が、品物に名前が書いてなかった。名前が書いてあれば、返しにいったであろう。で、自分も要らなかったから、屑入れに捨てた」と。
で、いっしょに、屑入れを、ひっくりかえして、探してくれた。
あった。
かれは、別に、わるいことをしたと思っていないようであった。
ただ、「よかったね」と言った。
こういうことは、欧米で、つねに、あること。
かれらの上流社会でも、同じである。
どこか、われわれと考え方が違う。
- そこで、こちらが、みんなのために、用紙を出すならば、メモ帖を1枚だけ、やぶいて出すこと。
それから、ボール・ペンは、となりの人までは貸しても、その人の書くのが終わったと見るや、ただちに、こちらに取り返したのち、改めて、つぎの人に貸すこと。
こういった、ガツガツしたやり方を、形だけ、上品に行なわなければならないということ。
- いったい、こういう仕切り方は、どこから来たのかということなのであるが、「遊牧民秩序」というあたりと、関係がありそうに思う。
- まず、公共物は、使っても、かならず、もとのところに返す。
で、公園の木に下がっているリンゴは、とらないし、地面に落ちていても、拾って行かない。
- が、誰かの持ってきたリンゴが、放置されてあると、きちんと持って行く。
- もし、そのリンゴの持ち主がわかれば、返しに行くが、おおげさに、「はい、あなたのリンゴでしょう」と手渡す。
持ち主が管理を怠っていたという見方。
- 自分のリンゴの戻った人物は、おおげさに、お礼を言うし、場合によっては、そのリンゴの半分をギフトする。
また、そのリンゴの持ち主のわからないとき、警察に届け出ても、仕方がないと見れば、公然と自分に処分の責任のあるリンゴであると認定する。
- が、そのリンゴを、自分で欲しなければ、誰かに、ギフトしようとする。
- が、そのような相手の見付からないとき、公然と屑入れに捨ててしまう。
あいまいなところに置くのは、世の中の整頓を乱す者であると考える。
これが、日本人であれば、どうか。
- 公共物を盗るようになったのは、室町時代ぐらいからのようであって、元来、そういう物は、盗っていない。
- が、誰かの私有物が放置されてあっても、手に触れない。
持ち主が探しに来るであろうと考える。
- もし、その持ち主が誰であるかわかれば、黙って、持って行って、黙って、置いてくる。
品物が、もとの持ち主に返れば、それでよいのであるから。
- 持ち主としては、誰かが持ってきてくれても、ニコッとは笑うが、すまして、受け取っておくだけ。
つまり、われわれの秩序は、「農耕社会」的であって、すべてが、遊牧民のようには、「移動していかなくてよい社会」での考え方である。
そうして、すぐに、物の朽ち果てる「暖地」的な考え方である。
われわれのほうが、進歩しているのは、全般に、サラッとしていること。
- われわれのほうが、だらしがないのは、公共空間を、めいめいで、きれいにしあわなければ、そこいら中、よごれてしまうという観念の乏しいこと。
- 同じ人間でありながら、環境が変わると、こんなに、変わるのかという気もする。
- ともあれ、ここでは、欧米社会とのドッキングを考えなければならない。
- 連中は、「私物」の管理責任を、きびしく、追及する。
また、「公物」を、めいめいが、維持管理することについても、きびしく、追及する。
- われわれの社会のほうが、すべて、だらしがない。
が、暖かい。冷えていない。
ハテサテ、人類としては、これから、どういう形を求めるべきか。
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