作法心得 ◆まえがき付 作法とわたくし

まえがき付 作法とわたくし

花

  1. まい年、わたくしは、「先生の作法は何流ですか」という質問を受ける。
    なるほど、わたくしも、過去、何かを、どこかに習いに行ったとき、そこの先生が、どういう流儀の方であるのかわからないと、心落ちつかぬものがあった。
    そこで、ここに、わたくしの作法についてのキャリア「らしき」ものを列記する。
    つまらん先生であることを、自分でラク印を押すようなものであるが、はっきりしていたほうがよい。

  2. 作法を教える方は、しばしば、礼法、茶道といったものの家柄を持たれる。わたくしには、それがない。祖先は田舎武士。「一介の武弁。作法とて相わきまえ申さ」なかった。
    祖父と父は、京都、東京で比較的作法に気を使うべき公職にいた。
    祖母や母のサトは、それぞれ、明治・大正期の実業家で、家庭内は作法的であった。母のサトのほうは、ロンドンに行っていたので、イギリス式という、かの作法を持って帰って来ていた。

  3. わたくしは大正時代に、こういった、比較的作法にうるさい環境に生まれた。が、まもなく、わが身を取り巻く公卿風、大名風、藩士風、町家風、アチラ風の作法のくいちがいを「変なもんだ」と、思って見ていた。

  4. 中学の剣道は、わたくしに、作法の柱を与えるものであった。

  5. 高校で、わたくしは、作法を、徹底的に無視しようとした。作法は、階級差をあらわす記号に見えた。

  6. わたくしのころの大学生は、現代大学生よりは、マセていたから、大方、りゅうとした紳士になることに努めたものである。その中で、わたくしは、ボサボサのバンカラで、作法について、意識を持たなかった。ただ、ときどき、シンフォニーや室内楽を聴きに行ったし、ホテルで洋メシもくった。そういうときは、セビロを着て、形の上での紳士になり、作法とやらに留意した。

  7. 大学を出ると、即日、役人となり、まもなく、軍隊に行った。軍隊での初年兵が済むと、予備士官学校に入れられた。ここの作法は、よく、研究ができており、作法に、システム能率を高める機能のあることを知らされた。軍隊作法といえば、堅いものと思われがちである。が、将校作法の真ずいは、ソフトであり、そうしなければ頭が堅くなり、部下を殺す、という事情を知った。将校作法には気品があり、それは、優美ですらあった。

  8. 士官学校のあと、1年間、航空部隊におり、死ぬ準備ばかりしていたが、突然、敗戦となった。で、しばらく放心ののち、もとの役人に戻った。
    が、なまじいに生きていると、インフレ下に役人の給料では、とても、生きていけない。で、夜は、アルバイトに行った。が、収入のよいアルバイトは概して、法律に触れる。そのとき、同僚の1人が「林。オレといっしよに来い」というので、ついて行った。芝浦岸壁での沖仲士というアルバイトであった。これは、法律に触れないし、給料も、役人よりよい。で、昼は、内務事務官、夜は、沖仲士という二業生活をした。昼間の内務省は、作法がうるさい。夜の海には、作法がない。
    が、ある夜中の3時ごろ、わたくしの運んでいた木材で、仲間の身体をこすった。で、小親分が、わたくしを、ハッチの横に呼んだ。
    「テメェ、ハタラキニンの“作法”を知らねえよう」
    「こんど、へまっちゃくれてみろ。ドタマさ、穴あけて、海さ、蹴込むぞ。そう思え。“作法”を知れ」
    で、わたくしは、沖仲士の世界にも、「作法」のあることを知った。 要するに、物をかついだときの身体のまわし方に注意が足りなかったわけであるが、こん日、考えてみると、まぎれもなく、これは、作法である。

  9. まもなく、内務省はなくなり、その前に、わたくしは、新設の経済安定本部に移されていた。やがて、昭和20年代も後半に入った。もう、沖仲士を、やってはいなかった。身体が、そう、続くものでないし、役所の給料もあがっていた。
    この昭和20年代後半に、ソーシャル・ダンスを習った。
    上役から、少し、身体のこなしを優美にせよという勧告があった。ダンスは、壁に鏡の多い教習所を選んで習いに行け、と注意された。で、行った。ただ、ダンスという「生殖の前技」のようなことを終生、習うまいと思っていたから、はじめ、いちいち、しゃくにさわった。けれども、やる以上、やることにした。で、日曜など、10時から、22時まで、休まず、ヒルメシ、バンメシ抜きで、練習した。相手になる先生は、女性である。が、この先生たちが、わたくしと踊ってくれない。「あらっぽくて、あの人、ダメですわ」などと言っている。わたくしは、カミクズ籠を持たされて、大まじめでやっていた。が、そのうちに、生きている女性が組んでくれるようになった。
    ただ、先生のうちにも、上手と下手がある。上手な先生は、カミクズ籠と同じくらい、軽く動いてくれる。下手な先生は、ブヨブヨと水を入れたゴム袋みたいに重いし、そのクセ、すぐに、文句を言う。

  10. そのうち、役所の上役が、わたくしを見に来た。で、「少し、床をすべるようになったが、おかしなクセもついた。ここの教習所は、このくらいにして、オレについて来い」といわれた。で、ある方のお宅に伺った。この方は、欧米生活が長く、ヨーロッパ上流ダンスを正規に身に付けている方であった。「ダンスのステップなどは、自分で、本を見て覚えよ。それには、イギリスの Sir. なんとかという人の本がよい。丸善の洋書売場に売っている。いまから、教えるのは、身体つきというか作法というか、そういうものである。日本人は、ステップばかり覚え、外国に行って、やるから、見ていて、サルのようになる」と言われた。また「ダンスとは、下手な相手を美しく見せるよう、リードする技術である」と言われるに及んで、感心した。
    ここで、わたくしと組まされる相手は、いずれ劣らず、たしかに、下手であり、ついでに、サマが悪かった。で、「下手な相手を美しく見せる」ことはダンスの中であるが、「サマの悪い相手を美しく見せる」ことは、ダンスの外であると申したところ、先生から、ジロリとにらまれた。
    そのうちに、うまい先輩の踊っているのを見て、わたくしは唖然となった。なんと、サマの悪い相手を、美しく見せておられるではないか。
    この先生は、おっかなくて、二言目に「それでも、習いに来ているつもりか」と、みんなの中で、どなる。頭に来た。けれども、いま思うと、どなられたことだけが身についている。で、先生というものは、どならなければいけないと考えるようになったわけである。さて、この先生には、学があった。歴史、文化、そうして、ダンス、いや、作法というつながりを、よく説明して下さった。わたくしが、作法を人間の歴史の一部として眺める目を得たのは、この先生による。
    ここに、週1度ぐらい、1年間、かよった。と、この先生は、また、海外勤務で日本を離れて行ってしまわれた。

  11. 昭和30年代に入ると、わたくしは、外国からの、いわゆるVIPに接しせしめられる会を持つようになった。
    もうひとつ、日本のホテル・旅館での従業員作法を、どう改善するかという研究会に引っぱり出されるようになった。ここで、わたくしは、「流儀同士のぶつかり」に遭遇した。で、改めて、作法の「わけ」を考えるようになった。

  12. 同時に、日本古来の作法と、欧米での一流作法を知るためには、「源流」を辿らねばならないと思うようになった。
    わたくしは、まず、外務省の友人に相談した。と、「外務省のもよいが、本源は、宮内庁にある」と言われた。わたくしは、「いまさら、衣冠束帯に十二ひとえでもあるまい」というと、「まあ、行ってみろ」と紹介された。
    なるほど、宮内庁作法は、明治維新以来、100年間に、すっかり欧米一流作法を取り入れ、日本古来のものとコンバインして、完成体をなしていた。
    で、外務省のと比べてみると、宮内庁のほうのが、はるかに、アカヌケしており、一本効いていた。

  13. このころ、わたくしは、茶の湯を、すこし、かじった。地方に出張すると、名家とか、そうでなくとも、名のある建物で、茶の湯の接待を受ける。いままで、上役のお伴で行っているあいだ、上役のマネをしていればよかったが、だんだん、わたくしが、その上役となり出張したとなると、わたくしが、いいかげんなことをするのを、部下がマネする。それは、まだよいが、部下が、茶の湯に通じていると、わたくしのやり方につき、あとから文句をいう。「林さん、もっと、勉強してください」わたくしは、うんうんと言いながら、そのうちに、ひとつ、習うことにするかと思っていた。
    が、ある日、外国からのVIPを案内しているとき、わたくしが、茶の湯を、やってみせなければならなくなった。そのときは、いい加減なことをやっておいたが、見ているVIPたちには、わからずに済んだ。と思ったところ、その中の1人が、茶目っぽい目付きをして、あとから、わたくしに言った。「茶の湯は、わたくしどもには、難しいですが、あなたにも、難しかったようですね」こういう言いまわしは、かれらの、普通に使う「やり方」である。 で、わたくしも、やっと決心して、役所の仕事のあい間に、習いに行った。が、座っていると、足が痛い。立てなくなる。
    そのうち、不思議なことに気づいた。一日、茶の湯をやると、それから、一週間ぐらい自分の書く文字の形が、かわる。で、また、もとに戻る。で、茶の湯は、一週間に1度ぐらいずつ、やるとよいわい、と思った。
    忙しい仕事のあい間に、やっていたから、あまり上達しなかったが、茶の湯というものの1つの効果がわかりかけたような気がした。少なくとも、出張したときとか、外国人旅行者に見せる程度には、やれるようになった。

  14. 昭和30年代後半に、わたくしは、早稲田大学名誉教授今(こん)和次郎先生に私淑するようになった。観光地域診断にお伴をしたのが、きっかけで、それから、先生が亡くなるまで、約10年間、いろいろ、お世話になった。今先生は、青森県弘前市の出身で、まず、すごいズーズー弁。「ワダグズ、スナワツ、コンワズロウ」
    この先生は、人も知る「考現学」の開祖。「風俗研究」の大家。40年間、ジャンパーで通し、セビロを持たれなかった。晩年に、勲章を貰われ、宮中に出かけて行かれるとき、困られた。今先生は、「作法が人間生活に、すこぶる、大切な要素であること」「しかし、ほんとうに、人間に必要な作法を、旧来作法の中から抽き出して、他を捨て、また、足りない新作法をつくらなければならないこと」といった考えをベースに持っておられた。今先生をつちかったものは、日本の農民生活、フランスで数年間の農村放浪生活。と、申し上げては管見であるかも知れないが、とにかく、この先生は私淑していくほど、すごさを感じた。
    わたくしが、この先生から得たものは、はなはだ多いが、作法については、「人間と作法」ということである。

  15. あと、昭和40年代に、わたくしは、西ドイツで、作法塾に通った。しかし、これは、短期間であったから、語るにあたるまい。

  16. ただ、昭和40年代、ことに、44年以降、わたくしは、毎年、少なくとも、1度は、海外に出かけるようになった。で、海外、ことに欧米では、作法上の問題で、いろいろ、顔を横なぐりされるような目にあった。
    また、海外にいる日本人が、あまりにも、作法上、ひどいのに、どうにもならぬ気持ちで、ふさぎこんだ。

  17. だいたい、わたくしの作法歴は、こんな程度である。わたくしのように、作法の専門家になろうと思っていない人物にも、長い間には、この程度に、作法らしきものと相触れる機会があるものである。で、作法を説く資格が、わたくしに、ほんとうにあるかどうかはわからない。わたくしは、まだ、作法を学んでいる途中の者である。

  18. わたくしが、しかし、作法なるものに、いくばく真剣になったのは、教室で、週一ぺん作法を教えなければならない立場に追い込まれてからである。

  19. ともあれ、諸君はどなたもが、わたくし程度には、作法通になられ得るものであることを知っておいていただきたい。

  20. さて、流儀のことではないが、ある日、ある学生が林講師の作法心得は、「間違っています」と言ってきた。聞いてみると××講師が教室でそういったと言う。で、××講師に、わたくしが聞いた。××講師曰く、フランスでは、食事のとき、手を机のうえにあげるが、イギリス人は、元来、あげないのです、と言う。いつから、そういう具合になったのかと聞くと、「フランス人の書いた本にありました」との話である。わたくしが、「その本を、持ってきてみろ」と言うと、彼は持ってきた。見ると、なるほどそう書いてある。わたくしも、その本を一冊求めて、静かに読んでみた。そこいらじゅうイギリス人を、けなす偏見に満ちた本である。このことがあって以来、わたくしは、教室で、そのことをも注意するようになった。同時に、この本では、そういった失敗を、しないように、心掛けているつもりである。

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