暖かい人

石 原 道 子

 私は青春時代の思い出から考えると、父親は怖くて話もできないのがホンネでした。しかし、それは私の心の中に罪悪感があったからだと思います。
 それというのも成績も悪く、勝手な行動ばかりで父を心配させていたからです。小学校からとても有名な私立のエスカレーターの学校に入学させてもらい、とてもかわいがって育ててくれたのです。しかし私にとってはそれは重荷になっていることだったかもしれません。同級生の親は皆さん有名な方だったり、貴族の出身だったりという環境でわが家は貧乏で公務員のお給料だけだったからです。皆さん運転手付の自動車を持ち、すらっとしたお母様はPTA活動にはお帽子をかぶっていらしていました。母はその中でも役員をして今を思えば頑張っていたのだと思います。
 高校生のころ、父は役人を辞めていましたので、もっと家がきらいでした。ほとんど毎日が来客続きで朝から晩まで仕事をしていた父ですから、たまに来客がない時は私を呼び「成績と勉強について、または人生の話」をするのですから父の前ではリラックスもできませんでした。私はなるべく家に居ないように生活をし、外出を好みました。
 そんな高校時代をすごし、私が大学生になったころからはだいぶ親子間は暖かい心が通じるようになりました。私は車の免許を取得し父の送迎をしたりしている間にはとても楽しく話を交わしたものでした。私も大人になっていたのでしょうね。こちらの考え方、成長具合で親子の付き合いは温度があがるのではないでしょうか?特に父が胃潰瘍で入院していたことがあり、その時は毎日「どらえもん」「オバQ」のまんがの本を買って病院へ届けていました。入院中に私は帰宅途中にあるステキな喫茶店でワッフルを食べて帰ったことを話すと、退院の日にその事を覚えていてその喫茶店へ寄りたいと言うのです。それで2人だけで喫茶店でおしゃべりをしてだいぶ遅く帰り母を心配させました。その上、喫茶店の前で車の駐車禁止の紙を警察に張られてしまい、その処理にも時間がかかったのでした。
 この胃潰瘍の手術はかなりの大きなものだったように記憶しています。体の40%の血液を入れ替えたとか・・・そして「輸血によって人格が変わった」と本人が言っていました。そして自分にはない夢をみるようになったとも話していました。

キンデルさんと父

 小さい頃、ある日突然「キンデルさん」というドイツ人が家に来ました。(この写真は青山の部屋です。この後ろのブロックはペチカで、右側がピアノです。)父はどこかのすし屋でこのドイツ人と知り合い、自分の家へ泊まれといってつれてきてしまいました。多分私は幼稚園に行っていたころだと思います。大きなドイツ人で日本語はまったくできないということで、私の初めて接した外国人の男性でした。今のように外国人は頻繁には見れなかった時代です。キンデルさんは独身で仕事はおもちゃの輸入でした。私とも遊びおんぶもしてくれたことを思いだします。キンデルさんは1ヶ月ぐらい我が家に滞在してたようです。(部屋が2部屋しかなかったのです。さぞかしびっくりしたことでしょう)父も母もしどろもどろで英語とドイツ語を話し、私はその会話の中で違和感を感じていました。その後、キンデルさんは何回も日本に来ていました。結婚してからは奥様も日本に一緒にいらしたこともあり、両家の交流は続いていました。父が亡くなって母がオートキャンプのヨーロッパ大会でドイツに行った時にキンデルさんの家に行きご夫婦に会い、父の亡くなったことを話すとキンデルさんが泣いてくれたそうです。(その時、キンデルさんも病気だったのですが、)そして、もう一度、母は癌になっていたのですがヨーロッパに行ったときはキンデルさん自身ももう他界されていて奥様だけにお会いしたとのことで写真をみせてくれました。

 私は日吉に居たころ(3歳まで)、母の実家に道をへだてて家があり、その隣は母の妹が独身でピアノ教師をしている家があり、また祖父母の家の隣には母の兄夫婦と家があったのです。ですから私はいとこの家、祖父母の家を好きに出入りしていたわけです。この写真は我が家にいとこが来ていてピアノの前で写真を撮ったわけです。

家族といとこ

 母は兄1人、姉と妹の4人兄弟でした。姉と妹は両方ともピアノ教師をしていました。長女は鎌倉へ嫁いでいましたが、若い頃はピアノの取り合いでたいへんだったので、3人姉妹の真ん中の母はピアノは弾けないようになってしまったそうです。母はその分油絵を習わしてもらって小さいころから本格的に絵は描いていたようです。ですから叔母の誘いもあり母は私にピアノを弾けるようになって欲しかったようです。(今年、この写真のピアノとも別れがありました。)

 そして今、自分が父の年代になってきて心の温かさに触れたい自分がいます。私は恵まれていますが、最近の日本人に失われてしまった思いやり精神は父を見習わなければなりません。例えば、お世話になった方へ1回だけのお礼では心は通じない、金品でお礼をするよりも長く顔を見せてのお礼の方法を選ぶ・・・というような事もよく言っていました。こまった外国人を狭い我が家に泊めて世話をし、その後の長い交流もその一つですが、熱心に学生さん1人ひとりをわが子のように考えてアドバイスしたり、仕事もいろいろと考えて利益そのものよりもその頃での環境問題や人々の心を考えた計画をしているのです。それは何よりも暖かい心で接していたわけです。心が通じる方は今でも父を覚えていてくれているのがその証拠なわけですね。

  2007年9月



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