父とのお正月○○○

石原 道子

 私が丸一日 父と過ごすのは毎年元旦の1日だけでした。

もちろん 小さいころには 一緒に日曜日を過ごしたこともあったのだと思いますが、物心のついた小学校頃から、まるまる朝から晩までをすごすのは、1年中でお正月だけでした。

 父と母は結婚して母の実家の隣へ住みました。(神奈川県横浜市日吉)その後、私が3歳のときに、東京都港区青山南町へ家を建てて引越しました。

私が生まれる前は、日吉のいとこを相手に まんがを書いたりして 遊んであげていた。
隣なので 毎日遊びに来ていたらしい。彼女も「よく遊んでもらった」と言っている。

 私の父方は林家で中野(東京)にすんでいました。母方は今川家でしたが日吉でした。お正月は毎年、両方の家にお年賀にまわるのです。ところがその頃は父は経済企画庁の役人でしたので、年末からほとんど家にもどらず、徹夜を何日も続け、予算をとるために仕事をしていました。勿論、大晦日も除夜の鐘どころではなくて朝3時にやっと帰ってくるのが慣わしでした。そして、仮眠をする暇もなく、お風呂に入り身を清めます。お正月ですので一番よい背広に着替えて、家の神棚にむかって「祝詞」を上げます。神棚に向かって3人で並んで立ち、父が祝詞を読み上げるのです。これがものすごく長く感じて、私はいつもふらふらめまいがしていました。

わが家の2階は全部が本棚でした。ワンフロアーで20畳以上ある板張りの部屋で、ベニヤを2枚張り合わせただけの壁でした。全面ぐるりに腰までの90センチ幅の机をつくり付け、中段から天井までは全部が本棚でうまっていました。それ以外にもスチールでできた 組み立て式の本棚もたくさんあり、人間が通れる幅で迷路のようにおいてありました。その奥の天井に近い一部に神棚が作られていたから、小さい私にとっては神棚を見上げている姿勢をしているだけで疲れ、また祝詞を読み上げている20分ぐらいの間は端から本の題名を読み上げたりして、気をまぎらわしていたのを思い出します。

 終わると、1階に下りてお正月のご挨拶をします。「あけましておめでとうございます。」お辞儀は3秒・・・と、その後、今年の抱負を言わされ、それに対し父からのお小言とかを頂戴して、母が2〜3日前から作っていた「おせち料理」を前に御屠蘇をいただき、お雑煮をいただきます。ほとんど寝ていない父はもうお屠蘇だけでほろよいかげんになっていました。

昭和33年 日吉のおじ達がきて青山の自宅の入口にて写した。

後ろから 父、母、だっこが私、着物のおばと いとこたち。
まだ1階建てのブロックの家。
白い木のフェンスをしていた。

 いよいよ、朝6時ころに家族3人で出発です。まず青山の氏神様である「熊野神社」に歩いていきます。そこでは 大きな鈴をガラガラとならし、2礼2拍手 境内は静まりかえっていますので 父のパンパンという拍手はキリリとした寒い正月のまだ人の居ない境内に響き渡ります。

 次は電車を乗り継いで 中野の祖父母のアパートへ行きます。祖父はいすゞ自動車の会長をしてましたが、軍人としての責任感から、自宅を処分して中野駅近くの公団住宅に6畳2間で暮らしていました。そこでおばあさまの作ったおせち料理、そしてまた お屠蘇。。おじいさまが昭和36年(私が小1年)に亡くなってからは、おばあさまと叔父やいとこたちと一緒に多摩墓地へお墓参りに出ます。電車にゆられて、どこか小さな駅で乗り換えて 昔はなかなか電車がこなかったのを覚えています。多摩霊園入り口に近い、山田つなぎ屋さん(お茶屋さん)へ行くと、林家の家紋いりの桶があり、それに水をいれ お線香とお花を買ってお墓まいりです。いつも何本もほうきをかりて行き、いとこたちと松葉や松ぼっくりを拾いながら、ほうきを取り合いになりながら掃除をしていました。松葉を集めてたきぎをして、線香に火をつけて・・・この仕事は宏おじさんがいつもしてました。(今はその多摩墓地に、おばあさまも父も母もおもしろい宏おじさんも、みいんな入ってしまいました。多摩墓地のメインストリートの東郷元帥のお墓の裏側です。)

動物園に行ったとき

 小学3−4年生の正月
 中野の公団住宅の前で

 同じ日
 多摩墓地にて
 祖母の林喜美といとこ

 中野で叔父やおばあさまたちは中央線を降りてしまうと、私たちはそのまま日吉へ昼過ぎまでに行きます。そこには母の兄弟や祖父母15名ぐらいが集まっての宴会です。海外が多かったおじいさまの話を聞いたり、いとこたちとはいろいろな話をしたり、ゲームをしたりします。最初にお年玉をいただき、母たち兄弟はプレゼント交換をしていました。これはとても楽しい行事でした。おばあさまはいとこたち(5人とも女の子)に小学校4年生になると、腕時計をプレゼントしてくださいました。中学校入学では万年筆を上げると決めていたようですが、時代の変化で今では万年筆や腕時計は安価に買えるようになりましたが、その時代はとても高価なものでした。頂いた赤い皮のベルトの腕時計は今でもたんすにしまってあります。

 そして叔父や父たちは、お屠蘇にはじまり赤ワイン、ウイスキー、ブランデーと珍しいお酒だと次々と開けて飲んでいました。叔母は料理が上手で変わったおせち料理がよく出てきました。また、ドイツに転勤していたためにローストビーフや肉の煮込みやトマトにツナをいれたオードブルなど、その頃には珍しい西洋料理でもてなしをしてくれました。おなかいっぱい食べ、父は酔っ払い、みんなで記念撮影をして楽しいお正月でした。

 夕方5時頃になると日吉をおいとまし、私たち3人は東横線で渋谷まで帰り、必ず渋谷で正月映画か演芸場で漫才や落語をみました。しかしたいてい疲れて半分居眠りしていましたが・・・これで思い出すのは 1回は「植木等のサラリーマン」の映画で植木等が踊りながら歌って会社にかよっていました。1回は東横演芸場で「てんぷくトリオ」がしてて 本当にお腹をかかえて笑ったことを覚えています。この時、「笑い出したら止まらない」を経験しました。

 父が車を買ってからはこの行事を電車ではなくて、車で移動するようにしましたのでたいへんでした。

地図の上にものさしを置き、自宅の青山から⇒多摩墓地⇒鎌倉霊園⇒日吉と線でつなぎ、その通りを走ってみようというのです。そのころはもう中野の祖父母は亡くなっていて多摩墓地へお参りし、日吉の祖父母も鎌倉霊園にお入りになっていましたので、多摩墓地から鎌倉霊園への直行でした。最初、家を出て、「熊野神社」へも車で行き、神社の横に車を横付けしてお参りです。(昔はせまい道でも車が通らなかったので平気でした)それから多摩墓地までは甲州街道を行きます。それからがおもしろいのです。

父が運転をして私が助手席で磁石と地図を持ちナビゲーターです。多摩墓地でお参りをすまし、まっすぐに鎌倉方面に向かって運転をしていきますが、道がまがっていたりしてぶつかってしまいます。すると、「道子、どっちだ?」と聞くので私はなんとなく地図をみて直線を引いた道に近い道を教えます。そして赤鉛筆で通っているところに色を塗っていきます。そして時間を記入します。父は運転しながら「今、出発してから何時間何分たった?」と聞くので計算しますが、だんだんめちゃめちゃになってきます。

そのうち、川を渡るために橋をさがしたり、車の入れない道だったり、山の上の方では、他人の家の庭みたいなところを横切ってしまって、家の中の人がガラス戸越しにびっくりした顔をしていたり、それでも平気で父は運転をしていき、時々、「橋から何分たった?」と聞き私は計算ができなくて 怒られながら地図に赤い線を塗ってやっと鎌倉霊園につきました。

鎌倉霊園は広い公園墓地です。今川家お墓の1段下には「樅の木は残った」の原作者の山本周五郎のお墓があり、そこだけが樅の木を1本植えてあり(その頃は1mぐらいの高さ)周りは芝生に石碑だけの公園墓地ですのでめだっていました。子供達がたこを揚げたり、お墓参りに日本髪に着物姿の人たち・・そこではのんびりとしたお正月風景がひろがっているのに、私たち一家はお墓参りもそそくさと(キリスト教なのでお辞儀だけ)車へもどり今度は叔父たちの待つ日吉の家へ向かったのです。途中で何回も行き止まりに合いながら、母は後部座席で乗り心地が悪そうに、細い道をうねうねしながら いつ日吉に着くやら・・・と

翌年はこの赤く塗られた地図をもとに同じコースを走ってみましたが、1年の間に新しい道ができたりしていて、時間も短縮できたりして、すごく早く日吉についてしまったのを覚えています。毎年、新しく開拓した道を運転しながら何年たったのかはもう覚えていません。

(私がシャッターを押した)
多摩テックで ゴーカートを うれしそうに 運転している父

(多摩テックがオープンする前日に指導に行った)

1月2日は早朝から父のいとこや友人が訪ねてきて、母も私もお茶や食事を出しては挨拶をしていました。それが何日も続き、よく言われる「お屠蘇気分も遠のき・・」日常がもどってきてました。父はお客さまがいても聞いてるふりをしながらうたた寝をしていて「なんだったかな・・?」と言っておきてはしゃべり・・とお客さまも慣れていて平気ですわっていました。世の中はゆったり流れていましたから。

私にとって「お正月」はいつも朝早くから出かける準備をして神様、仏様を拝み、お墓参りをして親戚と会うという行事にプラスして「父と一日じゅう一緒にいる」年に1度の日でした。怒られたり、笑ったり、酔っ払ったり、居眠りしたり・・1年の計は元旦にあり。

2005年9月 



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