父と車○○○

石原 道子

 父についてを考えてみると、いつも仕事で大きな机の前に大きな椅子ですわっていた姿を思い出します。大きくて体がすっぽりはまるような、ゆったりした1人がけで緑色をしたベッチンのような生地で覆われた椅子でした。最近ではこんな大きな家具は見かけなくなりました。それにすわって、何か書いているか、または机の上に足を乗せて寝ていました。家にいる場合はお客様以外の時間はほとんどそこで過ごし、母も食事をお盆にのせて運んでいました。

 元来、父は猫舌でした。小さいときからおばあさまから「フーフーしておあがりなさいよ」と言われ、京都風のおすましはまったくと言うほど 味がなくて、それならいっそ冷たいほうがおいしいよ・・・というのが理由でした。ですから母がせっかく食事を運んでも、ずーと机の上に手つかずにおいてあり、もうひえきってから思い出したように食べてありました。

  私が小さい時は、モペット(スクーター)を買って、霞ヶ関の経済企画庁まで乗ってでかけていました。そのころはまだ、自転車や車以外でバイクに乗っている人はあまり居なくて、最新式のスクーターにまたがって、、、そうそう母がお得意の裁縫で何でも入るベストをつくり、それを着て出勤していました。そのベストはしっかりしたテント生地でできていて、たくさんポケットがついています。免許証、筆記具、書類、財布、ハンカチ、ちり紙、本 などなど 全部が体に貼り付けれるようにポケットのサイズが決まっていて、ファスナーやマジックテープでふさいであるのです。それは物を入れるとかなりの重さがあるので、まずベストを着てから、一つずつ 母に指示して「財布」というと母が財布をとり手渡しをし、定位置のポケットへ入れる。・・全部入ったら、体は重そうでしたが、モペットにまたがって出発していました。

  ちょうどその頃、父はコンタクトレンズに挑戦をしていましたが、まだそのころのコンタクトレンズは本物のガラスで1、5センチぐらい直径があって、見るからに厚くて、硬くて重そうでした。それを洗面台のところでつけて痛がりながら、スクーターででかけていましたが、多分2〜3回つけただけでした。そのころは両目で10万円くらいしたと思うので、たいへん母はおこっていましたが、それもスクーターに乗るから、目にゴミが入って危険なため・・と理由でした このコンタクトレンズの入れ物はゴールドの球体でできていて、その後も洗面所の台の上にずーと置いてありましたが あの入れ物も高いんじゃないのかなー?

  経済企画庁を退職して、自宅に「地域計画研究所」を開業しました。たくさんの地域診断や、JYH・ホテル・旅館の相談、たくさんの講演や雑誌の原稿をこなしていました。出張してはそこの診断をするので、全国知らない場所はないくらいで、以前きたときにはどうだったとよく覚えていました。方言もよく知っていていろいろな地域の人ともコミュニケーションをとっていました。自宅は常に来客やアルバイトの大学生が出たり入ったりでした。母もせっせとお茶を入れたり、食事をだしたり、写真の整理や書類作りの手伝い、電話と秘書のように24時間手伝っていました。おかげで私が中学生のころはほとんど会話をしないですみました。中学生の私にとって、父はとても怖くて、同じ家の中にライオンを飼っているよりも重たい存在でした。家の中ですれ違うと「勉強しろよ」といわれるだけでしたが私は家にかえるとさっさと自分の部屋へこもり、食事のときだけ1階に下りてきていました。

  40歳代後半、車の免許を取りに 恵比寿にある「日の丸自動車教習所」に行ってました。ずいぶん長いことかかって免許を取得していました。

  そして、免許を取ると同時に、フォルクスワーゲンのビーグルのあざやかなブルーを買い、どこへいくのもそれに乗って行ってました。それまではあんまり会話をしなかった親子でしたが車が来てからは、私も助手席に乗せてもらい、地図を見たり父と自然に会話ができるので楽しかったです。家にいて面と向かって相談をすると必ず怒り出すのが、こわくて話もろくにできずにいましたが、車に乗ってそれとなく近況報告をすると運転中だからか、素直に相槌をうってくれていました。

  それから数年して私も免許を取りに、日の丸自動車に通いました。免許が取れて、初めての運転でワーゲン(そのころは白ワーゲン)に父が助手席に乗ってくれて町内を一周、「ふー」と息をして家の前で降りて「今行った道を何周かしてみろ・・」と言われたのですが、私は1人になったら 渋谷の方まで乗って行ってみたくなり大きな一周をして家に帰ると、父は家の前のさっき降りた場所で立って待っていました。1時間は立って待っていたのだと とっさにこまりはてましたが、父は逃げるように家に入ってしまい何も言いませんでした。

  その後、学生さんを乗せてよく高田馬場のYMCAホテル学校へ行っていました。助手席に乗った学生さんが、父が信号無視をしそうになると「信号が赤」と注意してくださるのに対し、ホテルマンは「ございます言葉」を使えと怒り、その後は助手席の学生さんは何回も「赤でございます。」「赤でございます。」と言ってくださったとか・・・お気の毒に・・!

  父は運転が下手でしたが、自動車とは縁がありました。祖父は軍人でしたが、ドイツ語が非常にうまくて、若いころにドイツに留学をしていました。そして、帰国してから日本自動車工業会を設立し、晩年はいすゞ自動車の会長をしていました。子供のころから庭にある自動車を運転したり、いたずらをしている様子でした。将来は電気自動車の時代がくる・・・といつも言っていましたが、もうその時代は目の前です。

  今、父が元気で生きているとすれば、電気自動車を買って、良いコンタクトレンズを付けて、カーナビで日本を走っていたかもしれませんね。

2004年8月 




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