父と戦後

石 原 道 子

 父は陸軍中将「林桂(かつら)」の長男として育ち、また父の祖父の林和太郎は学歴や名声名誉が大好きな英語の先生(京都)でした。教え子には数々の総理大臣がいらっしゃったとか??

 和太郎氏の妻である林千鶴は京都で「鳥羽・伏見の戦い」を眼の前で見ていて、のちに大学生になった孫の父に朗々とお侍さんの戦争を語って聞かせました。かなりのおてんば娘だったようで、普通の人は目の前で繰り広げられる殺し合いには物音をたてないように潜んでかくれている時に、この多感な娘だった「おちづばあさん」は覗いていたらしい・・・林和太郎と千鶴の間には11人の子供が産まれ、全員が元気で体格がよく頭脳明晰だったということでした。林桂はその長男で、士官学校を卒業した。

 陸軍より派遣されドイツで自動車工学を勉強して帰国した「林 桂」は、40歳に近い歳で20代の大倉貴美(父の母)と結婚をし、父が生まれたのです。貴美は今現在はホテルオークラになっているお屋敷で育ち、現在、ホテルオークラの日本庭園に残っている大木はそのころからあったそうです。

 そんな家庭環境で生まれた實(父)はだいじな林家の長男のまた長男のために、7月生まれなのにおくるみにぐるぐる巻きに巻かれて過保護な育てられかたをしたようです。産まれてすぐに風邪をひいて具合が悪いようだ・・と呼ばれたお医者さまは、何枚ものおくるみを脱がして診察をなさったとか・・・そして、ひ弱でいつも風邪を引いているようなやせっぽち、しかし、遺伝で身長だけは伸びてしまい186センチにまでに父は成長しました。軍人であり、重要な任務についている桂氏からは徹底的に軍人としての教育を教えこまれ、正直であることや真面目に取り組む事の大事さは強く父の性格に植え付けられたようです。 また、母の貴美の実家は財閥だったのがだんだん没落していったため、父はこの事は話題にしないようにしていた。親戚からの「こね」などを使うことを嫌い「人生は自分で切り開くのだ」・・・という考えだった。

写真:喜美と父
大正8年秋 林喜美と父
写真:1才
大正9年6月10日
写真:1才
大正9年10月23日

 父は桂氏の言いつけで1年目は東京帝国大学経済学部をめざしたが、駄目で浪人をし、2年目は反対をおしきって文学部哲学科に合格しました。このころは心の奥には[文学と役者]をめざしていたのかも知れません。ところが、長身を見込まれ体育会実行委員長へと抜擢されたのです。運動音痴な父ですが、ただ大きくて目立つのでどこにいるかわかりやすいので、「広いグラウンドで陸上部が集合する時に父が笛を吹けばまとまり易い」と選ばれたのでした。

写真:6才 写真:学生

 しかし、大学2年の時に学徒動員のために戦争に行くこととなりました。よくテレビや雑誌で神宮の学徒出陣の写真やフイルムが流れますが、あの時に行進している学生の中で帝大の旗を持って先頭中央にひときわ背の高いのが父です。

写真:学徒出陣
中央 旗で顔がみえない
写真:中隊長
中隊長 昭和12年秋

 私が小学校の時にNHKの朝の連続テレビで(題名は忘れました)あの「学徒出陣の場面をドラマの中で忠実に再現したいので、指導に来てくれ」とたのまれて喜んだ父は私にもTVのスタジオ見学と称してつれていってくれました。ところが夕方から撮影が始まったのですが、真夜中までかかってしまい、私は途中からスタジオの片隅で寝てしまっていました。調子にのった父の指導で「駄目だし」ばかり、アルバイトの大学生が軍服姿でたくさん来ていて並んで行進するだけのシーンなのに夜中までかかり、「いっちに・いっちに・・・・」「右左・右左・・・」と大きな声で掛け声をかけては何回も練習をし、本番は監督さんじゃないのに「駄目だし」をしてしまうなど・・・・あの時のアルバイトさんにとっては一晩の軍事教練でしたね。そして放送のあった日に親戚一同でテレビを見てがっかりしたものです。15分番組の朝の連続ドラマですので、その学徒出陣の場面は影絵のようにさらっと流れただけだったのです。

写真:家族
左から  桂  實(父)  宏おじさん(弟)  喜美  戦後

 父には弟がいました。その宏(ひろし)氏は時々わが家にやってきては物を作っていくか、壊して帰りました。私は宏おじさんがすることをよく眺めていたものです。新聞をちぎってご飯粒で固めて形をつくったり、そうでなければ買ったばかりの扇風機を分解してもとに戻らなくなるという具合でした。

写真:父
 私が生まれたのは母の実家に隣接した日吉でしたが、3歳になったころに父はそこがいやで、青山に引越しを計画しました。土地だけ買い、なんでもしたがりの宏おじさんがやってきて、ブロックの家を手作りで建てようと言い始めました。 母は嫌がったのですが、母も設計図面などを書くのが好きだったために、とうとう宏おじさんと母の作った小さなペチカのある「珍しい家」が完成しました。なんとまず赤レンガで家の中心にペチカを造り、その両側に部屋を造り、出来上がった一部屋にまず、ござを引いて住み、つぎの部屋ができるまではそこでなんでもするという生活で、子どもながらにどういう風に出来上がっていくかが楽しみでした。そのころ公団住宅ができはじめだったのですが、それをモデルとして2LDK、玄関は1m四方(段差はなし)、トイレとお風呂は一体型、それなのに、今でいうシステムキッチンと居間がワンルームになっているなど、考えてみればとってもモダンな家だったのか??暖房は石炭を焚いたりゴミを燃やせば家中がぽかぽかと暖かくなります。

 父は青山に引越しをして、役人を辞めるまでは、ほとんど夜中に仕事をし、昼頃に役所に行き、出張をしてはポケットマネーで大学生のアルバイトを雇って清書や調査をしていました。少ない給料でどうやっていたのでしょうか?また、アルバイトの学生さんはこの小さな家に下宿しているのと同じで、ある日わが家にいる学生さんの数を数えたら30人も寝泊りしていてびっくりしたこともあります。そのころの学生さんは今では一流企業の社長さまになっていらしゃるのだから、覚えていてくださるのかしら?

写真:父  狭い書斎の中に部屋の半分は占める大きな机と大きな椅子(これは1日座っているのであるときはベット代わりになる)。机の上には2Bの鉛筆が30本から50本削られていて浅い箱にそろえて並べてありました。原稿用紙は印刷屋に作らせたオリジナルでした。。なぜなら、文房具屋で売っている原稿用紙のマスの中には入りきれないような大きな文字を書くからです。その原稿用紙は何回印刷屋で作りなおしをしたかわからないくらいです。あるときはブルーのインクで正方形のマスだったり、あるときは緑のインクで長方形で真中に点線がわたっていたり・・・と私は小さいころにこの原稿用紙の廃盤をもらってはマスの中に色をぬったり、数字を書いたり、あみだくじのように線をたどったりとおもしろかったです。新しい原稿用紙がくると早くお払い箱の原稿用紙が私のところへまわってこないかと思ったものです。ひろーい机なのに、たいていは鉛筆と原稿用紙・・あとはいつも転がる円球になった消しゴムとそのカス、羽根ほうきだけしかのっていませんでした。資料は全部頭の中にあったのでしょう?
 
 父の執筆に「21世紀への階段」という本があります。残念ながら今私の手元にすぐに出てこないのが残念です。この時の挿絵がまなべひろし氏、そしてそのころ未来学のさかんなころでグループには手塚おさむ氏などもいらしてわが家にも遊びにいらっしゃいました。また、NHKの教育TVや新聞にもたくさん取り上げられ、この本の中にでてきている例は今現在ほとんどが実現の物となったのは驚くべきことです。この頃から講演依頼でとても忙しくしていました。講演で使う未来図をよく母が徹夜で描いていて夫婦二人三脚だったようです。

 その後、父は役所を辞め「地域計画研究所」を開業し、山村や観光開発のコンサルタントをしながら、日本ユースホステル協会や日本オートキャンプ協会など青少年の育成なども考えはじめました。戦後はそういう器がなかったので計画をたて、造っていく時代でした。そんな時代を生きていた父は幸せだったと思います。思ったことを形にできたからです。これは敗戦後だったからです。

2002年8月



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