恩師 林實先生○○○

夕映えの宿 汐美荘
浅野謙一

とても畏怖(こわか)った人がわたくしには二人いました。1人は父で、もう1人は、わたくしのホテル学校の恩師でした。
恩師は大正8年生まれで、名前は林 實(まこと)。
昭和35年当時の中曽根康弘科学技術庁長官へ答申したレポート『二十一世紀への階段』がきっかけとなり、経済企画庁で観光行政の任にたずさわることになります。
そして、ホテル学校で大勢のホテルマンを育て上げました。“世界をもてなす館”ホテルオークラの「超一流」と冠せられるサービスの原点は先生の存在抜きには語れません。まさに、わが国ホテルマネジメントの権威でした。洋の東西を問わず、世界の一流ホテルを語らせたら、この先生の右に出る人はいませんでした。
恩師 林實先生 また、先生は健筆を振るい、ジャンルを厭わず、おびただしい数の文献を著しました。『林 實の年譜』と題する執筆・監修リストの小冊子があるくらいです。そのうちの一部は東京YMCA国際ホテル専門学校の図書館に『林講座配布文書』、通称『林 實文庫』として、書架に保管されています。

ホテル学校の専攻科にあって、わたくしどもは「研究生」と呼ばれました。
先生のことは「林講師」と呼ぶ決まりでした。
林講師は、観光数理と基本作法そして地域計画を講義されていました。
これは一般時間割表(朝9時20分から夕方3寺30分の5時限)の月曜日に組み込まれていました。
が、林講師の講義の大半は、その一般講義の始まる前の朝7時50分から9時20分と、一般講義終了後の夕方3時40分から深夜明け方までの無制限に(林講師宅にて)行われる0時限目の‘補講’であり、これが事実上のカリキュラムでした。
一般講義のない(つまり休日)の土曜、日曜の両日はすべて、林講師の‘補講’に充てられたのでした。
当然、学校が閉まっていますので、‘補講’は林講師のご自宅で行われました。

小生 ハダカ演説 たとえば、林講師の‘補講’には、毎朝7時50分からの「大声演説」と「観光産業マンは照れを知らない」と腹を叩いて、足呼吸をして、腰を据え、大声出して、メモをとるようなテンポで、パンツ一丁で行う「ハダカ演説」(ともに2分40秒)がありました。
林講師の合格が貰えるまで毎日毎日続きます。
わたくしの「大声演説」は5月29日からスタートし、10月30日にやっと合格。
「ハダカ演説」の方は、6月16日から始まって、9月30日になって、やっとパスしました。

林講師にまつわる話は 夥(おびただ)しい数、いろいろありますが、こんなことがありました。
あるときの日曜日、青山の林講師のご自宅に朝の6時に訪問しなければいけませんでした。
ところが、ご自宅の門前に着いたのが、6時ジャスト、慌てて呼び鈴を鳴らすや否や、スピーカー越しに「このぐうたらなまくらは帰れっ」といきなり大声で怒鳴られてしまいました。たった1分の遅刻だったのです。
真冬でしたので、夜も明けぬ時間、辺りはまだ真っ暗闇。しばらく、林邸の前で途方にくれ呆然と立ち尽くし、渋々帰宅しました。当然、その日は「欠席」扱いです。
林講師の説く「ホテルはタイムインダストリー」を体で教えてくれたのです。
わたくしどもは定刻「15分前主義」を徹底的に叩き込まれました。
あとから判ったことなのですが、『林講師宅訪問心得』と云う立派なテキストが学校にあって唖然としてしまいました。

体も大きく、喜怒哀楽も大きい林講師は、手も大きく、大きい拳で研究生の顔を殴ることも平気でした。
ある研究生は鼻血で顔面血だるまになった者もいました。
また、新調したばかりのネクタイを無惨にも切り裂かれたうえ、2階の窓から捨てられてしまった者、はたまた、お茶を顔面に見事にかけられた者、ワインなんかもあったように記憶していますが、なにせ、ことほど左様に、常軌を逸した(と思った)蛮行ぶりといったら、とても筆舌に尽くしがたい。
もっとひどいのになると、入学したその日に、退学させられた“犠牲者”もいました。
この手の林講師の鬼気迫るような「椿事」は、話し出したらキリがありませんので、紙面の都合上、その紹介はいつかまた別の機会に譲ります。

学徒動員により、東京帝国大学を繰り上げ卒業後、林講師は、近衛兵第三連隊へ入営、第一航空隊教育隊に分遣され、第七航空隊に曹長として配属されました。終戦後は内務省に復帰しています。
宜なるかな、林講師の体罰は軍隊仕込みの筋金入りであった訳です。

それはもう、林 講師の怖いのなんのって、怒鳴られると、研究生全員、体が縮み上がる。
学生時代陸上選手として鍛え上げられた190センチ近いがっしりとした巨体は、腕っ節が強く、ケンカは御手の物。ヤクザ(ご本人はUGと申していた)にも平気でした。

下手に反論すると、鬼の形相で目をむいて怒ります。あれはまさに鬼の顔でした。
この「下手に」と云う意味は、「おっしゃることはごもっともですが」と申して、ああ云えばこう云う、そんなスットンキョウを弄して、その場しのぎのご都合主義に走る「逃げの用兵」のことです。
林講師は決してこのような「ずるい」人間を、問答無用、容赦しませんでした。
中国酒授業で林講師は荒れに荒れた もしも、万が一、云っていることと、やっていることが違うのに、聞き手を煙に巻いて、みつくろう癖のある者が研究生であったりなんかしたら、林講師は、そんな食言癖がある手合いを、「なまくら」と呼び捨てるや否や、先制パンチの洗礼を見舞い、許しませんでした。
「言もひとなり」の研究生は、結局、全員畏服してしまいました。
「解決できない、改め得ない者は、切る」林講師は、どんどん、やめさせました。入学したときいた52名の研究生のうち、卒業できたのは38名でした。

昭和54年3月15日、ホテルニューオータニはローズルームでの卒業謝恩会でのこと。
「鬼」の林講師が仏になったのです。あんなに優しくて満面笑顔の師のお顔は、ホテル学校に入校して、お目にかかったことがなかった。
林講師の笑みを‘目撃’したのは、ご自宅に研究生を招き、万里夫人ご自慢のイギリス料理に舌鼓を打って、相好をくずされたときでした。
この日、わたくしどもを、初めてひとりの「ホテルマン」として、お認めくださった。
林講師は英語で「The best is yet to come.(これからがまさに本番であるぞよ。)」と申され、卒業生1人ひとりに、固く握手をされ、研究生としての艱難辛苦に対して、暖かいねぎらいのおことばをかけてくださいました。
しかも、「浅野様」と様付けの敬称で。まるで慈父のような林講師、あまりの嬉しさで感極まり、涙をこらえることができませんでした。

ページボーイ寸劇の筆者 来賓として臨席されていた林門下生のおひとり、われらが大先輩、ホテルオークラの橋本保雄顧問(当時ホテルオークラ専務)に、林講師は、誇らしげに、われわれ卒業生を、1人ひとり紹介してくださったものです。
まるで、アメリカ映画の『愛と青春の旅立ち』の士官学校の卒業式のシーンそっくりで、林講師がまさにあの黒人鬼教官なのでありました。

林講師は一流のホテルマンを育成するに当たって、研究生の「心と姿と行為を立派にする」ため、「あえて、人間の尊厳を無視した」のです。

恩師のことば。
「本当の一流ホテルというのは、雰囲気です。
雰囲気を即物的にいうと、味はもうギリギリまで出ていますから、そこから上は、においと音響です。
まつげの長い女性は男性にとっては記憶に残るのですが、音はまつげの長さみたいなところがあります。
それから平安時代で言えば、袖の香ぞする、最後にはやはり香りです。
結局、一流とはその辺で決まると思います。」
(『世界の一流ホテル(THE LEADING HOTELS IN THE WORLD)』KKワールドフォトプレス刊)

蓋(けだ)し名言を残されて、昭和58年8月30日未明、恩師 林 實逝く。満64歳でした。従五位 勲五等 瑞宝章授与。
いま、わたくしの手元には故人の遺作集『林 實の未来物語』があり、28年前の在りし日の先生のお姿を忍んでおります。

2001年2月 


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