HUASCARAN 南峰 6768m登頂

ワラスで3日間の休養を取り、同峰に数日前に登頂した日本人パーティの情報を得るなどでき、また山岳救助隊との日程調整も済み、6月20日ワラスよりマンコス及びムーショを経て、ムーショでロバ(ブーロ)2頭を雇い、4150mのBCに向かう。
今回はガイド・ポータ雇わずに我々だけでの登山を目指した。なお、佐藤は喉の具合が良くなくワラスに残る。
山岳救助隊とは9時にムーショで落ち合う事になっていたが、遅れて10時着。よって我々の出発も10時半となっしまい、暑い日差しのなかロバたちと共に HUASCARAN のBCに不機嫌のまま歩き出す。
ロバのみ何も文句も言わず黙々と進む。BCまで約2時間半の登り。
早くに出ればBCより上部の“MORAIN CAMP”まで行けたかもしれない。

翌日は4時起床で 5200mの地点まで稼ぎ、ACまでの標高差をせばめることとした。
最初はスラブ帯で山も見えない。出はじめの個所で適路を見失ない、30分近い時間をロスする。
山岳救助隊3名が追いつき相前後しつつ 4900mの雪線に出て、後は各自マイぺース。
雪が全面に残り空気の薄い真夏の弥陀ケ原を歩むが如き灼熱地獄。
正面に南峰とその登路を仰ぎつつC−T着13時。
一人当り個人装備プラス平均6Kg弱の分配荷物なれど、余りにもバテバテで、明日はルート偵察と軽い荷上げに予定変更。

更に立花は徹底的に食料を減らせと、「地獄に鬼」の指示をする。山岳救助隊はテントが違ったとかで下の“MORAIN CAMP”に戻り泊。

6月22日、他のパーティは7時頃上がって行く。
我々は8時過ぎ荷上品を背負いテント前よりアンザイレン。
山岳救助隊は1名が合流。最初は幾つかの雪の段丘を左右に分け入るが如くに歩み、やがて傾斜もきつくなり、所によっては45度を越える。
途中から左に直角にまがり、巨大な二つのセラックの隙間に急登路が続く個所に出た。
白石が日本を出る直前にもらい忍耐強く背負って来たアイスバイルとスクリュウハーケンの出番である。
クレパスを飛び越え、最初は45度位の傾斜のセラックの裂け目に白石が消えて行く。ザイルがどんどん延びる。
「オーケー!」の声に中村、早川の順にブロッカーを使い連続で続く。
静かになり立花も上部へ突入する。
最後の出口部分は出だしがかぶり気味な垂直の凹凸した壁で、国内で練習したアイスクライミングが正に役立つところ。
もがき、滑り、しがみつき、叫び、蹴っ飛ばし、大股開き、あらゆる手段を試み、且つ何度もトライして各選手はこの壁の乗り越えに最後は勝利する。
這い上がった上の狭い雪原をデポ地点として、本日はお開き。

翌23日、5780mの“GARGANTA”のAC入り。
昨日のデポ地点からは雪のブロックの転がる2個所のセラック帯を抜けて、斜め上にトラバースするように“GARGANTA”に辿り着く。
既に6〜7張りのテントが、巨大なクレパスの手前に建ち並び、なかなかにぎやかである。
下は晴れていたが、此処は風が強く、晴れたり曇ったりで寒く、冷たかった。期待していたよりも劣悪な環境のキャンプサイトであった。
いつものようにテントの中にもぐりこみ、雪を溶かし、お湯を作り、ひたすらに水分を摂る。
頂上アタックは直ちに明日行うこととなった。1名ライトを忘れるも、本人の判断と責任に委ねる。

6月24日、午前2時半起床。風は強いが晴れそうである。中村が不調を訴えテント番に残る。
立花、早川、白石の3名はアンザイレンして4時出発。
巨大クレバスに沿って南峰方向に進み、山麓を左に迂回するようにしてから、早速に急登が始まる。アイゼンが良く利く程に寒さも厳しい。既にトレースが残っており迷うことはない。
そのシーズンの初登頂者がそれなりに評価されるのは毎年変わるルートの開拓の功によるものである。

HUASCARAN 南峰は巨大な山塊である。急登と斜登が交互に続く。
登れども斜面が無限に続いているようだ。
寒く、冷たく、そして息が切れる。声もかすむ。
体力と気力の限界の勝負の世界が近ずいている。
何回も立ち止まり呼吸を整えるも、酸素が肺に満たされないのがわかる。
傾斜が緩んできても苦しいのは変わらない。
2パーティが下りて来る。「もう直ぐ」と肩を叩いて励ましてj呉れるが、身体が登高に抵抗するようで動きが鈍い。
それでも何回かの息継ぎで少しは楽になる。
太陽の光が当たり、いつのまにか懐かしの CHOPICALQUI 峰が遥か下方に見えるようになっていた。

緩い丘のようなその先が HUASCARAN 南峰頂上だった。9時40分。
広い頂きに3人だけが立っていた。ペルー・アンデス最高峰 6768m。抱き合い、握手を交わす。
360度の眺めを満喫する。

ACに下りた3人は中村と合流し、ACを撤収してC−Tまで下り、翌25日BC経由でワラスに帰着。
なお、ACよりの帰途、中村の体調が悪化したため、丁度ACに向かっていた山岳救助隊3名とBCよりワラスまでのヘリの支援を得た。この件は改めて別途報告としたい。(了)