講演資料
水面下に秘められた三次元の世界
−湖のメカニズムを解明する−
西條八束
1996年6月1日(大町)
☆摩周湖との出会い
「私はまだこれ程迫力のある湖を見たことがない。その周囲を、ぐるっと取り囲む山の
内側は、2,3百メートルから4,5百メートルの高さの、全部削り立ったような急斜面
だった。そしてその底に淀む巨大な湖水は、満々と濃紺色の水を湛えていて、飽くまで清
澄な感じだった。尾根の上から遥かにさざなみの動くその水面を、じっと見つめていると、
摩周湖は生き物だというような気がして来た。
しかもその周囲20数キロに及ぶという大きな湖の真ん中には、神話にでもありそうな、
小さな島がたった一つ聳え立っていた。私は暫く見ているうちに『これはどうもただの湖
じゃない。おもしろい相手だ』と、思うようになった。」(猪谷六合雄:雪に生きる・1
943年羽山書店より)
当時旧制松本高佼の学生だった筆者は、これを読んで摩周湖という湖に特別の興昧を持
つようになった。しかし戦時中で、とても北海道へ旅行できるような状態ではなかった。
しかし敗戦後まもない1948年夏、旭川営林署に就職した友人の好意で、念願の摩周湖
を訪れることができた。私も摩周湖の濃紺色の水面を見おろしたとき、衝撃的な感激を覚
えた。
少し堅い話になるが、この摩周湖の水面の下に隠されている世界について、湖沼学の立
場から考えてみると、この湖への興昧はもっと深まるのではなかろうか。まず、水面にぽ
っかりと浮かんでいるかわいい小島である。摩周湖は、もともと、カルデラ湖と呼ばれる
火山体が鍋状に沈下してできた湖である。鍋の底にあたる部分は水面下約200メートル
にあり、かなり平坦である。このさりげなく見える小島は、その湖底から噴出してできた
小さな富士山のような円錐形の火山の先端なのである。
また、何故この湖があんなに深い藍色をしているのであろうか。この色は湖の透明度と
密接な関係がある。透明度というのは、直径25センチほどの白色の円盤を水中に沈めて
ゆき、何メートルの深さまで見えるか測るものであるが、摩周湖は、1931年8月31
日、北海道水産試験場で調査をした際、透明度41.6メートルを記録した。これは当時
のバイカル湖の40.1メートルの記録を破り、世界一透明な湖とされた。現在でも20
〜30メートルの透明度が測定され、日本では最も透明な湖である。
私も太平洋の黒潮(これも濃い藍色をしているからその名があるのだが)の海で30数
メートルの透明度を測定したことがある。白色の円盤は沈めていくつれて次第に小さくな
り、藍色の水中に、はっきりと白い点のように見える。これから私たちは、その水が深く
まで澄んでいることを肌で感じ取れる気がする。摩周湖の場合も全く同様に見えるであろ
う。
この濃紺色の秘密は次のように説明できる。摩周湖の湖水のかわりに蒸留水を満たした
場合も同様な色を示すであろう。純枠な水は、赤、橙、黄、緑などの光は深さとともに急
速に吸収してしまうが、青い光だけは非常によく透す性質がある。青いガラスのフィルタ
ーと同じである。この青い光りが深くまで入っていき、さらに水の分子によって散乱され
て水面にもどってくる。摩周湖の水も黒潮の水も同じ理由で青いのである。
摩周湖の水を見ていると、さぞ冷たいだろうな、と思うであろう。かっての調査結果を
見ると、八月の表面付近の水温は15度くらいはある。しかし深さ15メートルくらいか
ら急速に冷たくなり、30メートルではほぼ5度になる。つまり、この間では深さが1メ
ートル増すごとに水温が一度くらい下がっていることになる。深さ50メートルから湖底
までは、だいたい4度を示している。
これは水という物質が持っている不思議な特性からきている。たいていの物質は液体の
状態にあるときに冷やしていけば次第に重くなる(密度がおおきくなる)。そして固体に
なると、もっと重くなる。ところが水は例外である。液体の水を冷やしていけば、4度ま
では重くなる(つまり密度が最も大きくなる)が、それより温度が下がると、かえって軽
くなる。氷になると、さらに軽くなる。
このような理由から、摩周湖の深い層の水はほぼ4度である。冬に表面が結氷しても、
その水温は変わらない。
☆巨大な冷蔵庫
これまで述べたように、深い湖の深層の水温は1年中4度に近い。しかし、もっと南の
方の暖かい地方の湖は冬に氷も張らないため、深層の水温も若千高くなる。例えば琵琶湖
では約70メートルの深さの湖底が広くひろがっているが、そこの水温は1年中7度くら
いで、ほとんど変化しない。冷蔵庫の中と同様である。
1993年は冷夏だったため、前例のない米の凶作であるとさわがれていた。しかし、
今から二○年ほど前は米の生産が過剰で、古米、古々米などがあふれ、政府は米を保存す
る場所がなくて頭をなやましていた時代がある。その時の話が出たのは、あまった米をビ
ニールの袋に入れて、琵琶湖の深いところに沈めて保存しようというアイデアであった。
これは結局実現されなかったが、もとはと言えば、第二次大戦中にスイスで小麦を保存す
るためにやったことである。
深さ1673メートルあるバイカル湖は世界で最も深い湖だが、冬は厚さ1メートルを
こえる氷に覆われる。湖上の1月の平均気温はマイナス20度くらいだが、水温は表面近
くで0度、湖底近くで3.2度である(このくらい深くなると水圧のために水の最大密度
は四度でなく若干低い水温が観察される)。このため、湖水中の生物はシベリアの冬のき
びしい寒さにさらされることなく、ぬくぬくとした環境で生活している。かっての氷河期
でも、氷の下の水温は同様で、生物は寒さの影響をほとんど受けることなく生き延びてき
たことが、容易に想像できるであろう。
ダーウインが調べた太平洋のガラパゴス島に変わった生物が多数いるように、湖は大陸
の中の孤島のような役割をして、多くの生物種を保存してきた。2千万年の歴史を持つと
いわれるバイカル湖にいる千2百種あまりの動物のうち、3分の2はこの湖だけに見られ
るものだという。
ここにも、湖の水面下には、地上とは一味ちがった別の空間、小宇宙ともいうべきもの
が隠されていることが感じられるであろう。
☆小宇宙の住民たち
湖の中にも、陸上と同様にさまざまな生物が生活している。そのことを経験的に一番知
っているのは釣りの好きなひとたちであろう。水のきれいな湖ならサケ、マスの類、汚れ
た湖沼ではコイ、フナあるいはウグイなどが釣れる。冬に結氷した湖面に穴を開けて、そ
こから見える黒い水面に釣糸をたれてワカサギを釣るのも楽しい。
しかし、湖水中で魚がひとりでにわいてくるわけではない。餌を食べて成長している。
湖の中でも餌のもとになるのは植物である。植物だけが、太陽の光りのエネルギーを使っ
て、二酸化炭素(炭酸ガス)と水と少量の栄養分(窒素、リンなど)から有機物を作って
くれる。あらゆる動物は、直接、間接にそれを食べて生活している。これは陸上と全く変
わらない。
しかし湖の植物の大きな特徴は、岸近くに生えている大型の水草は別として、その大部
分が顕微鏡でなければ見えないほど微細な藻類、ケイ藻、緑藻、ラン藻などからなってい
ることである。このごろよく知られている食物連鎖の関係に沿って、小さい藻類(あるい
はバクテリアなど)を小型の動物プランクトン(ワムシなど)が食べ、それがまた大型の
動物プランクトン(ミジンコや魚の稚魚など)などの餌となる。さらに、それを魚が食べ
る。日本には魚食魚は少ないが、例えばナマズの類や、最近心ない釣り人が持ち込んだブ
ラックバスなどは魚を食べる。
また、ひっそりとしているように思われる湖底の泥の表面付近には、ボウフラの仲間の
ユスリカの幼虫が生活しており、年に何回かは水面で成虫、つまりカになって空中に飛び
立っていく。イトミミズもたくさんいる。これらも重要な魚の餌である。
食物連鎖というと、小さな魚を大きな魚が食べるという、かんたんなつながりを思い浮
かべるだろうが、現実はそんなに単純なものではない。例えば現在、諏訪湖をはじめ、日
本の多くの湖でもっとも多い魚となっているワカサギを例にとってみよう。ワカサギは4
月ころ産卵し、ごく小さな稚魚として湖水中で生活をはじめる。その頃はごく小さな動物
プランクトンであるワムシを食べている。初夏になり少し成長すると、中くらいの大きさ
の動物プランクトンであるミジンコの類を食べる。秋のはじめには、さらに大型の動物プ
ランクトンであるノロミジンコを餌とする。11月ころには、もっと大型のユスリカ幼虫
をたべるようになる。
このようにワカサギだけを考えても、人間が生まれたときから成長するにつれて食べ物
を変えていくように、成長に応じて餌が変わって行く。餌となる生物は、それぞれの時期
に食べられるだけ減少する。その影響は、さらに他の生物にも影響していく。このように
湖の中の食う、食われるの関係はきわめて複雑である。このため、最近では食物連鎖とい
う言葉よりも、もっと複雑な生物相互の関係を示す食物網という言葉が使われている。
このように考えると、心ない釣り人が、それまで湖にいなかったブラックバスを放流す
ると、どんなことが起きるか想像できる。ブラックバスはワカサギのような小型の魚を食
べてしまう。その餌だったミジンコの類が食べられずに増えると、ミジンコの餌の小型の
藻類(植物プランクトン)は減ってしまう。というように、湖水中の生態系のずみずみま
で連鎖反応的に影響を及ぼすことになる。これが環境間題の恐ろしいところである。湖の
生態系のどこか一カ所に何かの変化を与えると、それが湖のすべてに影響する。その影響
は複雑で、専門の研究者でも到底すべてを予測できない。
☆湖の環境間題
湖の生態系の基礎である微細な藻類は、植物であるから、太陽の光りがとどく水面に近
いところでないと生活できない。一般に透明度の2〜2.5倍の深さまでである。この光
のある層では、藻類が光合成をすると酸素を出すし、また水面から大気の中の酸素が溶け
込んでくるので、酸素が不足することはない。
ところが、それより深い層になると光合成による酸素の発生は望めないし、大気からの
供給もない。一方で、表層付近で生育した藻類、ミジンコなどが生活力を失うと沈降して
くる。これらの有機物は底泥に住む動物やバクテリアの餌になり、消費され、その分だけ
呼吸作用で酸素が減っていく。したがって、とくに上下の水の混合しにくい初夏から秋に
かけては、深い層の酸素の減少は著しく、いわゆる酸欠状態になる。
昔から山間の深い生物の少ない湖は透明度が高かった。そのような湖では底の方で酸素
が減ることも少なかった。一方で平地の浅い湖沼は生物が豊富で水が濁り、透明度が低か
った。夏季には湖底付近の酸素は減少し、ときには酸欠になり、硫化水素さえ発生した。
前者のような湖は貧栄養湖と呼ばれ、後者は富栄養湖と呼ばれてきた。
それが最近約30年間の経済の高度成長に伴って、工業排水、農業排水、生活排水とし
て多量の有機物、窒素、リンなどが流入するようになった。とくに窒素、リンは湖沼の藻
類にとって最も不足しがちな栄養分であっただけに、それがたっぷり流れ込んだことで、
藻類は爆発的に増殖し、湖沼の汚濁は急速に進行した。これまで貧栄養湖に近かった湖が
20〜30年の間に富栄養湖のようになってしまった。
日本でも、世界中の湖でも同様である。富栄養化といえば、生物が増えるのだから悪い
ことではないように思われるかもしれないが、水質は悪化し、生態系も大きな影響を受け
る。この富栄養化問題については、別のところで詳しく説明されているが、その問題が湖
という小宇宙の生態系にどんな混乱をまき起こしているかは、この稿を読んだ方には理解
して頂けると思う。