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2006年 6月10日〜 11日
講師紹介
成田 研一
講演
『国立公園よもやま話』 
━自然景観保護から生物多様性の保全へ━
特別寄稿


『国立公園よもやま話』
━自然景観保護から生物多様性の保全へ━

講師 成田 研一


はじめに

 皆さんこんにちは、成田です。実は、こんな遠い所までおいでいただいて、もし雨だったらどうしようか、昨日梅雨入り宣言があったばかりですので心配していて、今朝起きてみたらこのとおりでほっとしているのです。まだ山が見えるので、皆さんが歩かれる時間まで晴れていて欲しいと思っております。
第15回山小舎カルチャーにお招きいただきまして、ありがとうございました。昨年清水さんから下見に来てほしいと言われまして、そこで原山先生のお話をうかがわせて頂きました。皆さんが和気あいあいと楽しく勉強されているのを見せて頂きました。去年のうちから今年話をすることは頼まれていたのですが、私は本当にサボり癖がありまして、つい最近まで何を話そうかということを考えていなかったのです。国立公園のことを話すことだけは確かなのですが、一口で1時間ちょっとで国立公園のことをどういう様に話せばいいのか、いろいろと悩んでいたのですが、その悩みが消えないうちに今日が来てしまいました。私の話の後に、ここ(上高地担当)のレンジャーに「上高地の諸問題」について話してもらうことになっています。

国立公園クイズ
Q1: 日本に国立公園はいくつありますか?
Q2: 最初に指定されたのはどの国立公園ですか?
Q3: 一番新しい国立公園はどこですか?
Q4: 一番大きい(陸域面積の広い)国立公園はどこですか?
Q5: 最も多くの府県にまたがっている国立公園はどこですか?
Q6: 一番利用者が多い国立公園はどこですか?
Q7: 最も原始性が高い国立公園はどこですか?
Q8: 世界自然遺産を含む国立公園はどこですか?
Q9: 日本百名山(深田久弥)のうち国立公園に含まれるのは幾つですか?
Q10: 貴方は今までにいくつの国立公園に行ったことがありますか?
(解答は 20頁)


写真:講演中の成田講師さて、このパンフレットは、日本の地図に日本の国立公園を全部載せたのもので、皆さんのお手元にありますので後で見て頂こうと思っています。今日皆さんにお渡ししたレジュメの一番最後のページ10ページになりますが、ちょっと皆さんを試して見ようと思いまして(クイズを)載せてみました(笑い)。と言いますのは、日本の国立公園について皆さんがどのくらいご存知だろうか、最近では国立公園というものの意識が薄れていくようで心配をしていますものですから。
ここの場所は国立公園ですが、ここは何国立公園でしょうか、もちろんご存知でしょう。質問の10問中5つ正解されたらかなり国立公園のことを知っているなと思っています。50点以上はなかなか大変で、専門的というかよほど関心をお持ちの方でないと、その先60点70点は取れないのではないかと思います。これは私の話を聞いて解答を書き込んでいただければ良いと思っています。
 私はご紹介のあったように、今は環境省、元環境庁、その前は厚生省にいました。国立公園のもともとの行政は厚生省、厚生省ができる前は内務省の体育局か健康関係の保健局とか言うところにあって、厚生省に移って国立公園部というのができました。それから昭和46(1971)年に環境庁ができて、そして最近環境省になったのです。そこに私は厚生省時代に入りまして、レンジャーをあちこちでやっておりました。


日本の国立公園の特徴

 日本の国立公園は一番北は利尻礼文、その中の礼文島が一番北ですが、一番南は沖縄の西表まで28あります。我々レンジャーは各地に配置されて現場の管理の仕事をやっています。皆さん国立公園といってもただきれいな景色があるところで、誰が管理しているのかはよくご存じないと思います。歩いてパトロールをして高山植物を触ろうとすると「ダメですよ」というのが、レンジャーだと言うことぐらいしかイメージがないのではと思います。
日本の国立公園の最大の特徴は、難しいのですが『地域性の公園』、それに比べアメリカの国立公園は『営造物の公園』といっています。どういう意味かというとアメリカの国立公園は全部国立公園としての土地、国立公園の専用地を国立公園として指定しているのです。日本の場合、環境省の土地はどのくらいあると思いますか。国立公園の全面積のほんの0.02%しかないのです。そのくらい環境省の土地がわずかでも、国立公園は環境省が管理しているのです。だからレンジャーの管理業務は、他人の土地でも、また国有地ではあるが林野庁の国有林内についてもなされ、場所によっては、木をばさばさと切ることもあります。そういった土地所有形態、これが日本の国立公園の最大の特徴です。
アメリカで国立公園が最初にできたのは1872年のイェローストーンで、あそこの大景観を子々孫々にまで伝えようということで、先覚者が、国が設定する「国立公園」というものにしようとしてできたのが始まりです。それから次々と、ヨセミテとか指定されましたけれど、それ以外は、オーストラリアとかカナダとかニュージーランドとかいわゆる新大陸、新しくヨーロッパから移り住んだ所にほとんど専有地の国立公園ができています。国立公園は公園専有地で、他の産業とかを排除して公園専用に使えるものが新大陸の国々でできていったのです。日本はといえば、昔から開発というか、人間がいろいろな所に住んでいまして、いろいろなことに使っていたので、日本で国立公園の専用地を広く確保するようなことは、土台無理な話です。


日本の戦前の国立公園

 日本に国立公園が最初にできたのはアメリカの1872年に第1号ができてからずいぶんと時間がたってからです。レジュメの1ページ(本書31頁)にありますように、明治44(1911)年、「国設大公園設置に関する建議」が第27回帝国議会に出されたのです。これが1911年ですから1872年からすると40年近くたってからやっと日本でそういうことがあったわけです。それからさらに20年たった昭和6(1931)年にやっと「国立公園法」という法律ができたのです。その前に都市の緑を公園にしようという都市公園の制度も同じように作ったらどうだという太政官布告が出まして、安芸の宮島とか都市にある公園はそういう方で進んで行ったのです。自然公園の方は昭和6年に国立公園法ができ、これは自然の大風景地の保護と利用を目的にしたものです。
その法律から3年経った昭和9(1934)年3月に、「最初の国立公園はどこですか?」というクイズがあったと思いますが、3つ(瀬戸内海、雲仙、霧島)が同時に指定されました。その年の12月に今度は阿寒に始まる5つ(阿寒、大雪山、日光、中部山岳、阿蘇)が指定されたのです。その後昭和11(1936)年に十和田、富士箱根、吉野熊野、大山が指定され、ここまでが戦前の国立公園です。全部で12の国立公園が第2次世界大戦前に指定されているのです。ところが瀬戸内海も今の瀬戸内海の区域ではなくて、鷲羽山とか屋島の備讃瀬戸一帯の岡山県から香川県に連なる細かい島がいっぱいあるあたりを中心に指定されたのです。雲仙も今は雲仙天草国立公園というのですが、このときは雲仙だけで、霧島も今は霧島屋久国立公園といって屋久島も入っているのですが、このときは霧島だけでした。こういうように後で拡張されたのですが、第1号はこの3つでした。戦前に指定された12の国立公園というのは、中部山岳も入っていますが、質的には非常に良いすばらしい国立公園がそろっていますね。



戦後の国立公園

 戦後にはいくつもの国立公園が指定されたのですが、戦前のこの12の国立公園というのは自然景観が第一級で、国立公園は日本を代表する自然景観を指定することになっていますから、まさにそのとおりの所が指定されているわけです。
戦争中は自然保護だとか景観保護だとか言っていられなくなったようです。戦前は日本にも外国人を招こうと、観光誘致をしようという考えがあったのですが、戦争中はそんなことは言っていられず、国立公園は国民の体力を鍛える場ということで、厚生省で扱われていたようです。
それが終戦になりまして、昭和21(1946)年三重県の伊勢志摩国立公園が、ここは三重県一県にあるのですが、指定されました。これにはいろんな意味がありまして、伊勢志摩国立公園というのは何で有名でしょうか。そうです、真珠ですね。真珠がアメリカに受けるということで、戦後の国立公園行政をスタートさせたいが、あの時はまだアメリカの支配下でしたから、アメリカに気に入ってもらおうという魂胆もありまして(笑い)指定しました。ただここはほとんどが民有地で、かなり民有地があるところでもそういう政策的な意図があって指定したこれが戦後第1号です。
それから役所の人員も増えていって充実したものですから、次々と指定が進んで現在はこれもクイズにありますが、28あります。28番目は後で話しますが、私が最後にちょっと関わったのですが、釧路湿原です。これが今日本で最後にできた国立公園ですが、今後、国後や択捉が帰ってくれば第一級の場所はたくさんあります。今の所28箇所ですからこれでクイズの第1問に答えました。
戦後初の国立公園は伊勢志摩ですが、それから28というとまだ15も増えているわけです。これにはいろいろな国の政策があり観光客誘致や戦後の経済の復興とか、都市民が自然に親しむレクリエーションをしたいなどのいろいろな要望がありました。戦前に指定した12箇所というのは、景観の一番いい場所を指定しましたから、地域的に偏りがあったわけです。戦後日本人がだんだんと懐が豊かになって遊びに行く所、自然の中でのレクリエーションをしに行く所をもっと作らなくてはいけないということで、増やしていったわけです。


特別保護地区

 昭和24(1949)年に国立公園法を改正して特別保護地区制度と国立公園に準ずる地域――これは『国定公園』ですが――を制定するように法律改正をしたのです。特別保護地区というのは国立公園の中でも一番大事な生態系があり、景観も優れている所です。この穂高もここ(上高地)は特別保護地区ではありませんが、穂高の山とか稜線部は大体そうなっています。皆さんよくご存知の日光国立公園に尾瀬ヶ原の湿原がありますが、ああいうところは特別保護地区となっています。このように各国立公園のここは景観的に大事だとか、自然保護上重要な所は特別保護地区に指定しています。ここでは落ち葉1枚拾ってはいけない、落葉を取るには学術研究とか何とかで許可を取ってやるというところです。たとえばそういうようなところを指定できるようにしたわけです。
次に国定公園、これは国立公園に準じる景色を持った所を、要するに国立公園だけでは偏りがあったのでもう少し都市民が行ける所とかに、国定公園をかなりの速さで指定して行ったわけです。確か全部で55箇所くらいあったと思います。国立公園についても戦前の12箇所には劣るけれども、まあここも国立公園にしていって良いという所を指定して、利用を中心とした国立公園という考え方も出てきました。



レンジャー制度

 昭和28(1953)年に、我々レンジャーの制度ができまして、40名かもう少し多い人数が第1号のレンジャーで全国に配置されました。昭和28年がレンジャー第1期生でして、私は昭和35年で第8期生になります。ここにおいでの村田さんは私の先輩、第5期生で昭和32年入省です。28年にレンジャーの制度ができるその前には、雇いの人を国立公園の現場や県庁の観光課あるいは土木部の計画課のようなところに国から出向させていたことがありました。正式のレンジャーは28年に生まれたということです。           



自然公園法

 昭和32(1957)年に国立公園法が「自然公園法」に代わりました。国立公園、国定公園、そして各都道府県の県立公園、あちらこちらに国立公園をまねて県の自然公園がつくられていたのですが、こういうのをひとつの法律でまとめてしまおうと考えてできたのが自然公園法です。そして自然公園法で国立、国定、都道府県立公園という3段階の自然公園の体系が確立されたのです。



海中公園制度と地域性公園の仕組み

 それから昭和45(1970)年になりますと「海中公園」制度というのが自然公園法の中に入りました。沖縄ではもぐりやシュノーケルで海の中を見たりしますね。沖縄だけではなくて、伊豆や南紀の潮岬の方にもあります。きれいな珊瑚や海草や海中景観など、陸上だけではなく海中も保護しようじゃないかと言うことで、海中公園というのが国立公園や国定公園沿岸域に設けられました。
レジュメのカラーのページが5ページ(本書35頁)にありますね。これは北海道の利尻島です。利尻礼文サロベツ国立公園の中の利尻島です。国立公園というのはこの図のように島全部ではなくて、色で囲まれた所が公園の区域で、先ほど話しました特別保護地区が右上の写真にある利尻富士の山の上のほうにあります。ほぼ8合目から上の橙色で囲んである所で、一番保護すべき地域です。
島の外側に水色で囲んである所は、陸上部にきれいな海岸や岬がある場所を地域に指定して、そこから半径1kmの海の上を指定した海上の地域です。地図には3箇所ありますが、いずれも陸上には岬のような国立公園の区域があって、半径1kmの海上が規制の一番ゆるい普通地域に指定されています。この図の左下に5段階に色分けした凡例がありますが、一番上が規制がきつく下に行くほど規制が緩くなってゆきます。日本の国立公園というのは、こういう風に分けられていて一番きつい所は先ほども言いましたが落ち葉一枚拾ってもいけない、蝶一匹、虫一匹取れない、採るには許可がいるところです。
普通地域というのは、この島の場合は海の上だけですが、陸上にもありまして、何かしたい時は届け出をすれば良い所です。そのあいだの1種、2種、3種というのは環境省、つまり大臣の許可を取って何かをする、家を立てるとか、地形を変えるとかをする所です。特別保護地区はまず許可にならない、第1種がそれについで厳しい、第2種、第3種と緩くなって普通地域は届け出だけでよろしいとなっています。
たとえば沖縄の西表国立公園の海の部分に珊瑚がきれいな場所があったら、その中に海中公園地区を指定して保護することができるようにしたのが45年の海中公園制度ということです。それまでは陸上の景色や自然環境を守ることでしたが、珊瑚礁や藻場といった所も大事なので守ろうとしたのです。



環境庁発足

 昭和46(1971)年にいよいよ『環境庁』というのができました。ここで6ページ(本書23頁)に私の経歴のようなもの(レンジャー小史)を載せておきましたが、ここの4番に阿蘇と書いてあります。私は昭和42年から46年まで阿蘇に居りましたが、2行目に『厚生省よさようなら!』と書いてあります。これはどういうことかと言いますと、昭和45年の暮れに、皆さん記憶があるかもしれませんが、「公害国会」というのが開かれました。このころはヘドロとか光化学スモッグとか大気汚染とか公害が頻発して、その前の時期が経済成長が盛んな時期で、公害対策をしてもほとんど機能していない時期でした。これではいけないということで水質、大気、自然、要するに環境に関係ある――公害国会でしたからいわゆる『公害』が主体でしたが――いろいろな法律を厳しく改正したり、あるいは新しく条項を付け加えたのです。ちなみに自然公園法も一部行為の規制強化が図られました。この時の総理は佐藤栄作氏だったと思いますが、厚生省でやっていた公害行政は厚生省では手に負えない、新しく「環境保護庁」というのを作ろうという考えがどこからか出たのです。『政府は環境保護庁を設置!』という記事が、新聞にぱっと出まして、何かの構想があるというのが分かりました。そこで「厚生省よさようなら!」というのはですね、我々現地にいたレンジャーは厚生省ではろくなことがなかったわけでして、予算は小さいし、定員は増えないし、いつも冷や飯ばっかり食わされて、ただ自然が好きだからがんばっていたわけです。こんなことでは国立公園の行く末が危ない、環境保護庁ができるのだったら、自然保護もそっちへ行こうじゃないかということで大騒ぎをしたのです。私が阿蘇にいた時の所長という人が元気の良い人で、もう亡くなりましたが、この施設(活動ステーション)を作った人でもあり、私が一番尊敬する先輩です。ものすごくやんちゃな人で、私はその下で科長をやっていましたが、「お前達、仕事を止めて今から『厚生省よさようなら!』をやろう」ということで、ビラ作り、アジテートをやったわけです。レンジャーの行く末を明るくするには、この際、環境保護庁が大気汚染防止とか水質汚濁防止をやる役所だから自然保護もそこに行けば良い、自然も環境なのだからということで、「厚生省よさようなら!」というビラを作って全国にばら撒いたわけです。全国のレンジャーと連携をとって、さらに地元の新聞、熊本日日新聞というのがここの信毎新聞のように地域では有力紙で、そこの社説やコラムに書いてもらおうとして投げ込みをやったりしました。地元の有力代議士や国立公園に関心を持っているファンといった人たちに電報作戦、電話作戦、ビラ作戦をして2ヶ月ぐらいは仕事をしませんでした。そうしたら本省から所長に『そんなことをしていたら首だ』という電話が毎日のようにかかってきました。所長は電話を取って、『はいはい止めます』といってガチャンと電話を切って、その後『いいから君達やれ、続けろ!』といって(笑い)いました。我々は面白かったですね、仕事をするより面白かったから一生懸命やりました。ビラを作ったり、電話をかけたり。そうしたら12月の国会が始まって年が開けたら、46年の2月ごろに環境保護庁設置が決まり、そこへ厚生省の国立公園も行くというニュースが入ったのです。それで我々喜びまして、所長はしばらくしたら本省へ転勤になりました。これが「厚生省よさようなら!」の話です。
話を元に戻しまして、何の話をしていましたでしょうね(笑い)。そうそう環境庁発足、これは昭和46年の7月です。私は、レンジャー小史に書いてあるように、4月には富山県に出向して阿蘇にはいなかったのです。その所長はもうしばらく阿蘇にいて、さっきの熊本日日新聞に『阿蘇の環境庁長官!』と書かれていい気になっていました。それは、以前から阿蘇町が阿蘇の外輪山(カルデラ壁)を崩して砕石を取っていたのですが、今まで誰も言えなかったことをずばずばと言って止めさせたと言うことを新聞が記事にするのに、所長のことを阿蘇の環境庁長官と見出しをつけたのです。このように活躍されまして最後は審議官まで行かれて、その後、自然公園財団の専務理事をやられていました。



自然公園にふさわしい利用のあり方の検討

 こんな歴史的な話は面白くないと思うのですが、一応最後まで行きますと、昭和62年「自然公園にふさわしい利用のあり方の検討」というのがありまして、国立公園を指定してもいろいろな問題がありました。たとえば上高地を基地にして“ヘリ観光”をやろうという話がかつてありました。山小屋は今でも物資を運ぶのにヘリを使っています。また自慢話になりますが、うちの会社が設計して清水さんにもお世話になったのですが、涸沢にトイレを作りました。涸沢のトイレは全部カートリッジ方式で便槽を引き出してヘリで吊り下げて上高地までもって降りるのです。ヘリはこのように有効に使うのは良いのですが、観光に使うのは、歩くのは面倒だから上から見るというのはどうでしょうね。また西穂にロープウェイができまして、あれをこっち(上高地側)に伸ばそうという計画がありました。今そんなことをしていたら上高地はめちゃくちゃになっていたと思いますが、それもダメだということになりました。国立公園だけれど、ちょっと度が過ぎた利用とかふさわしくない利用は、たとえば湖にエンジン音の大きなモーターボートを浮かべて走るなど、富士五湖でも洞爺湖でもやっていますが、もっと自然性の高い湖、小さい繊細な湖でそんなことをしたら大変な事になりますね。そういうところではエンジン付の船は一切禁止して全部カヌーにする。もし湖を観光したい人はカヌーを利用するというように、どういう利用をしたら国立公園にふさわしいかを、62年から平成元年にかけて審議会を何回も開いて検討したことがあります。自然公園にふさわしい利用のあり方検討というのをこの期間にやっています。
この間、昭和62(1987)年の7月、昭和の最後に近い時期に釧路湿原国立公園が28番目の指定を受けたのです。
平成2(1990)年、12年、14年と自然公園法改正と書いてありますが、国立公園の目的は最初に申しましたように、日本の一番優れた自然景観を守るために、あるいはそれを楽しむために指定したのです。しかしそれだけでは立ち行かなくなって来まして、景観を守るために特別保護地区だとか段階を設けていろいろな行為を規制していたのですが、それだけでは守れないような事態になってきました。それは先ほどのふさわしくない利用もありますが、上高地はどうですか、国立公園というよりも観光地ですね、こんなに人が入ってきて良いのだろうかと思うぐらい人が入ってきています。実は今度困ったのは知床です。昨年、世界自然遺産に登録されて……そういえばクイズの何番目かに「世界自然遺産を含む国立公園はどこですか?」というのがありました。それは知床国立公園と、霧島屋久国立公園ですね。白神山地というのは国立公園でも何でも無く、自然環境保全地域という別の制度で網がかかっています。知床で今言われているのは、今もどんどん利用者、観光客が増えていることです。利用者というのは登山をしたり自然観察をしたりという人のことなのですが、そんなことはどうでも良くて、とにかく知床へ行こうと大挙して出かける人がどんどん増えているのです。これをどうするかということがこれから大問題になるのです。つまり景観が良いから指定して法律の網をかけて守っているつもりだけれども、利用者が増えることはとめられないのです。尾瀬の最盛期に行かれた人がいらっしゃると思いますが、木道に数珠繋ぎになってすごいことになっていますね。ああいうのも尾瀬の自然の為には良くないのですが、国立公園を楽しみに行くことをとめられない。そこでどうするかという問題が今後出てくるでしょう。伊勢志摩のパールの所はどんどん行ってもらっても良いでしょうが、民有地だし真珠が売れれば地域が活性化しますし、ここは普通地域が非常に多いのです。もちろん良い所もあって、あのリアス式海岸は、あんなきれいなところは他には無いです。リアス式海岸は東北の陸中海岸にもありますが、伊勢志摩のリアス式は上から見るとすばらしいものです。大きな意味で骨格は大事だから国立公園で守ることにしたのですが、残念なことに民有地が多いのです。民有地が多いのは伊勢志摩と戦前に指定した吉野熊野、この2つです。これらは一部分(大台ケ原など)を除いて微妙な生態系を持っているというわけではないので、これでも良いのです。


生態系・生物多様性の保護

 知床、部分的には尾瀬、中部山岳の一部、たとえば雲の平、ここのキャンプは禁止になったはずですね、ああいう微妙な生態系で特別保護地区になっている所は、景観というよりは生態系というか生物多様性が問題です。生物多様性と言うのは難しい言葉ですが、いろいろな種類の生物が居るということ、遺伝子的にも多様だし種類も多いしいろいろなタイプの生態系があるというのが生物多様性の意味なのです。それを確保しなければいけない、確保されていて始めてそこにいろいろな生物が、たとえば釧路湿原ではタンチョウや知床にはシマフクロウというこんなにでっかいフクロウがいますし、生態系が守られてこそ棲んでいるのです。それを押しかけて行って見るのではなく、エコツアーという形で見る。エコツアー、エコツーリズム、これが今後の国立公園の利用のあり方になる、かなり有力な手段になるといわれています。エコツアーというのを今全国で商売にし始めていまして、沖縄とか知床にもそういうツアーはあります。これは人数を制限して、ガイドがついて一切周りの環境に影響を及ぼさないような仕方をしています。エコツーリズムの手法というのはこれからの国立公園の大事な手法だと思うのです。
このように生物多様性の確保のための法律改正、たとえばどんなことをしたかといいますと平成14(2002)年には特別地域の中で利用調整地区というのを設ける、指定することができるという法律改正を行いました。それは何かというと、道があれば自由に入れた所を人数制限をする、ある一定の人数が入ったらこれ以上は入れないというものです。京都に桂離宮という庭園がありますね。あそこも人数がある一定以上になると入れないですね。というのは雰囲気が壊れるからです。ある密度以上に人間が押しかけるとせっかくの桂離宮の庭園の雰囲気が壊れる。もし満杯だったら一人出たら一人入れるようにしています。
国立公園の中に利用調整地区を作っていくということを知床では模索中で、尾瀬もそうしなくてはいけないと思います。法律は改正したのですがまだ一つもできていないのです。これはいろいろ難しい、利権が絡んでいるし、尾瀬などでは山小屋をやっているので商売上がったりだということになってしまう。尾瀬には尾瀬財団というものができて入園料をとってという話もあったのですがそれも実施されていない。非常に厄介な問題ですけれど、法的にはそういうことができ易くする法律改正を平成14年にやっているのです。こういうように景観を守るために特別保護地区とかをやったのですが、これからは許可する、しないだけではだめでしょうね。


利用基地「集団施設地区」(附・大久野島)

 上高地は、バスターミナルの所にいろいろな建物が、あれは環境庁が建てたのですが(笑い)、あんなでっかいのを建てたり、後で行って頂くビジターセンターも数年前にずいぶん立派なものが建ちました。昔の状態を知っている人は、あんなことをして良いのかと思っているかもしれませんね。ここで話をしておかなければいけないのが上高地は中部山岳国立公園の登山口、登山基地に相当する機能を持っている。人が来すぎる感はありますが、「集団施設地区」というものを(国立公園内に)設定することができるのです。そういうものが各国立公園に、たとえば北海道の大雪山に登られた方がいますか、あそこに層雲峡という温泉がありますが、あの一帯も集団施設地区です。中部山岳国立公園はここ上高地と立山室堂と平湯が集団施設地区ということになります。ここにホテルとか駐車場とか利用施設を集団的に集めて散らばらないようにそこに計画的に収めている、そして他を守るという地区が国立公園に計画されていて、上高地もそのひとつなのです。ここは65haのかつて林野庁の国有林だったものを昭和28(1953)年ごろに、レンジャーが配置されたころに厚生省に所管換えして、これこそ最初に言ったアメリカの国立公園じゃないけれど、営造物公園、公園専用地としてあるわけです。そういうところを集団施設地区として、ビジターセンターやインフォメーションセンターもその計画に基づいて作られたのです。まあちょっとやり過ぎかなと思いますが、立派な施設ができたわけです。重点的に利用する施設は作るけれども、それ以外は生態系を守らなくてはいけない所、貴重な自然景観があるといった所は今後とも厳重に守っていかねばならないと思っています。
6ページ(本書23頁)の私のレンジャー小史で、私が一番最初に行ったところが大久野島といって西の方の人は知っていますが、あまり聞かれたことが無いと思います。瀬戸内海国立公園の広島県にある島なのですが、ここも集団施設地区なのです。何をやっているかというと、島全体が国民休暇村になっています。小さな島で70ha、周囲が4kmほどで、それを全部整備して国民休暇村として利用してもらっています。ちょうど昭和35(1960)年、私が入省した年なのですが60年安保の年で、あの時に岸内閣が代わり池田内閣になったのです。高度経済成長が始まり所得倍増計画というのを引っさげて総理になった。そういう時代になるということを見越して、国民休暇村というのは全国で33箇所くらいありますが、この近所では乗鞍高原と、妙高にもありますが各国立公園に一つか二つ置いたのです。この大久野島という島は、陸軍が毒ガス兵器に使う毒ガスを作っていた島なのです。私が行った時はまだ毒ガス工場がそのまま残っていました。毒ガスそのものは進駐軍(アメリカ軍)が来て撤去して、火炎放射器で真っ黒焦げに焼き払った建物だけが残っていました。そんな毒ガスがあるような所を何で休暇村にするのだろうということですが、池田総理が広島県竹原市の出身で大久野島は竹原市にあるのです。ということで休暇村は方々にありますが、割とこういったケースが多い(笑い)ですね。初めのころの休暇村は有力な政治家がものを言った場合があるのです。今でも時々毒ガス騒動がありましてそのたびに新聞に書かれてそうすると休暇村の利用者がガタッと減り、しばらくすると段々もとに戻り、しばらくするとまた出たを繰り返すのです。毒ガスはというと、私がそこに2年半ぐらい居ましたが、毒ガス工場の撤去工事、これは鉄筋コンクリートの非常に固いやつで土煙もうもうとした中で居ましたけれど、おかげで元気です。毒ガスのおかげかどうかは知りません(笑い)。そんなに危険ということは無いのですが、時々騒ぎが起こるのです。私の初めての任地でそういう経験をしました。


立山黒部アルペンルート(マイカー規制)

 レンジャー小史の5番目は富山県で、ここには長いことおりまして昭和46(1971)年から54年まで県の自然保護課に居ました。富山県の自然保護課にいると県の職員ですが、まるで立山(中部山岳国立公園)のレンジャーです。立山のレンジャーというのは別にちゃんといましたけれど、当時は立山のレンジャーも県の自然保護課に席を置いていまして、私と机を並べるような格好でおりました。私は県職員ですが、厚生省から出向していて戻ったら環境庁という感じでほとんど立山の仕事に忙殺されていました。ここで一番思い出に残っているのが立山道路のマイカー規制です。
立山黒部アルペンルート、標高の高い所を越えているのですがお金も高いですよね、今いくらぐらいするのでしょうか。あれを通すということで道路工事を富山側からずっとしていました。長野側は扇沢から関電トンネルを通ってダムに出て、ケーブルカー、ロープウェイで大観峰、ここから立山トンネルをトロリーバス(当時はジーゼルエンジンバス)で通って室堂に出る。その室堂に富山側から来るために、富山県は道路公社というところで一生懸命工事をしていたのです。もちろんお金をかけたから、有料道路にしていずれマイカーを通すのだということでした。昭和46年に私が富山に行ってしばらくすると、それが全線開通するというときに、環境庁が国立公園の中にやたらにマイカーを入れるということはどうかと言い出しました。上高地を意識していたと思うのです。当時は上高地にどんどんマイカーが入って、レンジャーがマイカーと格闘していたのです。要するに今のバスターミナルまでマイカーが来て、もっと奥まで河童橋の先まで入ろうとしていたのです。それを阻止しようとしてレンジャーが大きな石を置いて通れなくするというように当時のレンジャーはマイカーと格闘していたのです。
マイカーが増え出して、どうにかしなくてはいけないということで、国立公園の重要な所にはマイカー規制をやろうということを環境庁は考え出したのです。立山では道路が完成したらマイカーを通そうと、残土を使って駐車場の整備などをしていたのです。ところがそこへそういう話が出て、富山県の方へも「まだ通していないのだから、今のうちに通さないことにしてはどうだ」と環境庁が言ってきました。私のいた県の自然保護室の室長がびっくりして、あれだけお金をかけて県の道路公社が工事をやり、駐車場もちゃんと有料道路がペイする分だけ何台分作ったら良いか計算して作ったのにマイカーを止めろということは何事かと、かなり環境庁に反発しました。しかし、一切車を通していないうちに止めた方が良いということで、かなり激しいやり取りをしました。
立山道路というのは、バスで行かれたら分かると思うのですが、七曲があったり、ちょっと天候が崩れると霧が出たりするところで、もし車を入れたら混乱は上高地どころではないと思うのです。あちこちで車を止めて花を見るでしょうし、弥陀ヶ原などの高山植物帯は荒れるでしょうし、ごみは捨てるでしょう。何とか一切車を入れないで行こうという雰囲気が県民の間から起こってきたのです。県議会も真二つに割れまして、有料道路のため何十億、百何十億の金をかけて道路を作って、もうすぐ開通というのにマイカーを入れないでどうするのかと、ものすごい議論があったのです。我々自然保護課はとにかく車を入れないでおこうと、環境庁側についたのですが、県の土木部の道路課は上に建設省の有料道路課というのがついていまして、そこがちゃんと県を指導しています。こちらに建設省から来ている道路課長がいて、いつも叱られていてかわいそうだったのです。県の道路公社は、もし車を止めたらこれだけ赤字になって県民にこれだけ負担がかかるという計算をして我々のところに持って来るのです。それでも良いではないか、立山というのは富山県民のシンボルで、県民のシンボルを県民が金を出して守るのだったら県民が納得するのではないかという議論を何回もやりました。
市民運動というか県民運動によって県議会も何とかこちら側が強くなってきて、そして当時の知事は県出身の林野庁から来た人だったのですが、入れないで行こうという大英断をしてくれました。この方はもう亡なくなりましたが旧制富山高校の山岳部出身で、山をやる人はそういう理解が早いのかな、自然を愛しているのかなと思いました。あそこに車を入れて、立山を荒らしたくないという大英断でした。かわいそうだったのはその道路課長で本省と知事の板ばさみで、いつも泣くような顔をしていましたけれど、本当に気の毒でした。
この話は昭和46(1971)年で、開通すると同時にマイカーを止めまして一台も入れていない。有料道路の方は、今はバスと特別な車両は入れているみたいですね。債務は全部県が持って、県議会が最後は知事の言うとおりで良いと言ったのです。県民の財産である立山の景観と自然を守るために、その費用を県民が払っても良いということになって、いまだに払っているか、もう返し終わったかということです。一般財源から道路公社のほうへ金を入れていました。昭和46年というと、今全国で30地区ぐらい国立公園のマイカー規制をやっていますが、ここ(上高地)が始まったのが昭和49年ぐらいですから、富山県が第1号なのです。しかも全面規制を初めからやったのです。上高地の場合は徐々に徐々にやりまして今の形になりました。初めは季節規制だったでしょう。乗鞍もなかなかやらなかったのが、2、3年前にやりましたね。ですから同じ中部山岳でも富山が先鞭をつけて、環境庁の優等生だったのです(笑い)。そういう経験をここでしました。


里山での環境教育「ねいの里」

 それからちょっと話が国立公園から離れますが、里山での環境教育施設の計画と言うのがあります。昭和40(1965)年台の後半は里山とか二次林とかはあまり重要視されていなかったのです。里山を何とかしようとNPOが一生懸命やっているのは最近ですよね。あの頃はほったらかしであまり見向きもされていなかった里山地帯、何とか二次林を環境教育のフィールドにしようと考えました。それは立山で「ナチュラリスト」という制度を県が始めたのです。これが昭和47〜8年頃で、今はどこの県でも県から委嘱された自然解説員の様な方々がいますよね。富山県のナチュラリストというのは、もともとは富山県の民間団体の自然保護協会がやっていたものを県が取りあげてお金を出すようになった。そのナチュラリストが立山で雷鳥やハイマツや高山植物のガイドをして観光客に解説をするのも良いけれども、立山のあそこまで行けない人も多いし、ナチュラリストがやりたいのはこの自然をみんなに解説したいということでした。県民の中にもそういう要望が高まりまして、それはやはり立山があるからだと思います。また立山や室堂まで行けないというナチュラリストがどこかで活躍する場があったら良いというようなことを考え、富山から近い所でそういう意欲を満たせる場所、しかも県民の役に立つ、そういうフィールドを作ろうと考えました。
当時県民公園を作る計画がありまして、一部は都市公園、一部は森林公園で整備しまして、それ以外のどうしようもない場所が残っていました。そこはコナラの二次林で、ため池や水溜りもあるし棚田も残っていて、今で言うところの里山の環境教育をやるような所でした。非常に狭い所でしたが、そこを何とかして立山で活躍しているナチュラリストにも二次林の勉強もしてもらおうということでした。ナチュラリストになるには何回も講習を受けて、立山で高山植物や雷鳥やハイマツの勉強をして、立山の火山地形の勉強をして認定を受けてなるのですが、今度は二次林の勉強もしてもらおうということです。そこは、富山県婦負(ねい)郡にあり、今は富山市に合併しましたが八尾町とか婦中町あたりを婦負郡と呼んでいました。その名前を取って「ねいの里」という環境教育施設をやっています。そういった計画に企画から設計の前の私が代わるところまで関わっていました。あのころはまだ珍しかったのですが、あるコンサルタントを使って企画やソフトの計画をやって、富山県のナチュラリスト制度をそれに融合させるといったことも、県にいたお陰でやらせてもらいました。


釧路湿原国立公園

 最後の7番目に、私が富山から環境庁に戻り、その後十和田、阿寒、日光と北の方の事務所ばかり回りました。私は大阪出身だから南方型で、初めは大久野島のような南の方だったのですが、後になって富山とか十和田とか、阿寒、日光と北の方に縁がありました。すばらしい自然に、官費で行かせてもらったということです。ちょうど6年間で3箇所のうち最大の経験は釧路湿原の国立公園指定ということでした。阿寒国立公園のここ(川湯)に事務所がありまして、今、北海道は全部で6つの国立公園がありますが、当時は5つで、6番目の釧路湿原を指定しよういうところでした。国立公園の事務所は川湯温泉という摩周湖の近くの集団施設地区内の環境庁の敷地にありました。今の国立公園事務所(正式には北海道地方環境事務所)は他の省庁と同じように札幌にありますが、当時は阿寒にあって北海道全部の国立公園を見ていました。たまたま釧路湿原に近かったし、阿寒にいて釧路湿原の指定の準備をやるように指示されました。本来の業務は5つの公園の管理業務なのですが、指定前の釧路湿原の準備のためいろいろな視察団や学術調査隊が来たり審議会の委員の視察など、そういう案内をすべてやりました。事務所の職員や道庁の自然保護課と一緒になって調査に関わりましたから、結構忙しかったのです。
大臣、当時は環境庁長官ですね、代わるたびに視察に来るのです。大臣が来たからどうということはないのですが、話題の釧路湿原を見たいから新しく代わった大臣は必ず来ました。衆、参両院の環境特別委員会とか北海道議会とかいろいろな人が視察視察ということで目白押しだったのです。
釧路湿原というのは一番新しい国立公園ですが、行かれた方は分かると思いますが、こんな水平的な景観――低層湿原で山の上の高層湿原と違って、低層でヨシ,キタヨシ(葦)が茂っている平らな景観――は、今までは日本を代表する自然景観としての国立公園にはしてもらえなかったのです。ところが生態系というか、あそこにはタンチョウがいてこれらを保護するためのラムサール条約といって、重要な湿地を保護するための条約の日本での第1号になりました。これを機会に、やはり国立公園にしようじゃないかという話が起きまして、もともと釧路の自然保護協会というのが非常に熱心でして、釧路市が膨張していましたから、今のままで行くとどんどん湿原が埋め立てられて住宅地になり、タンチョウの生息域も狭まってしまう心配があったのです。低層湿原というのは景観的には今までの国立公園の景観とは異なり美しいという風には見えないのですが、水の中には生態学的には重要な魚とか昆虫とかがいて植物も豊かです。生態学的に見れば非常に重要であって、日本で一番広い低層湿原でもあり、景観というよりも生態系の保護とかタンチョウを守らなくてはいけないということで国立公園にしようということです。保護一点張りではなく、大釧路市もそばにありますし、国立公園の利用の方も促進したいということで、地元の方も初めは反対でしたが、後には賛成に回りました。初めは、北海道開発庁が湿原を全部埋め立てて農地にするという計画を立てていまして、要するに経済価値を生もうという計画がありましたから、地元の町村はみんなそっちを向いていました。しかし何回牧草地にしようとしても、最初はいいのですがすぐに(湿原状態に戻って)だめになるのです。農水省の施策というのは地元負担もあり、農地を作るには自分達も負担しなくてはいけなくて、多額の金を払っても2,3年するとだめになってしまい、良い牧草地にはならなかったのです。それで国立公園にした方が観光客も来るしと、だんだん賛成が増えてきました。環境庁と農水省の方ではつばぜり合いがあり、道庁でも農水関係と自然保護サイドでいろいろとあったと思うのですが、我々の方は環境庁、道庁の環境部自然保護課や釧路自然保護協会がいて、そして町村も徐々にこっちを向き始めて、初めの調査が始まってから比較的短期間で指定になったのです。いろいろな調査、タンチョウとか魚とかをやりまして良い経験をさせてもらったのが私の経験の最後のものでした。


知床国有林伐採問題

 一番下に、知床国有林伐採問題というのがありますが、知床の「100平方メートル運動」というのをご存知ですか。今の町長の2代前の藤谷さんという方が斜里町長をやっていたときに、開拓跡地にみんなで木を植えよう、そのためにはお金がいるから100平方メートルを8000円だったかで全国から寄付を募ると言うことになりました。ナショナルトラストのひとつだと思いますが、ああいうのを良く思いついたなと僕もお金を出しましたが、あれは自分の土地になる訳ではなくて、全国から万に近い人の名前がここ(現地)に刻まれていますが、そういうことを始めたところだったのです。でも横に国有林で良いブナ林があって、それが初めに話した第3種特別地域、一番緩い特別地域で、林野庁と環境庁の話し合いでは伐れる、特別地域だけれども伐って良い地域だったのです。それで林野庁は伐採計画を発表したのです。そうしたら、かなり自然保護の声が高まっていた時ですから、いろんなところから批判が出て、今までの林野庁だったら強引に押し通すのですが、しかし試験伐採という名目で伐りはじめてしまったのです。知床国立公園というのは、2つの町でできていて、ここが羅臼町、こっちが斜里町で、当時の斜里町長は材木屋だったから林野庁に賛成でした。その前に町長だった藤谷さんが亡くなって、材木屋が町長になった、林野庁はそういう時に伐採計画を発表したものだから町長は賛成でした。しかし選挙で落選した。今町長をやっている午来(ごらい)さんは、若いときから自然保護運動を一生懸命やっている人で、藤谷さんの子分みたいな人、その人が当選して町長になりました。そのとき環境庁長官だった稲村という人が、この人は後に株取引で問題になった人物ですが、林野庁が伐採計画を発表したとたん知床に乗り込んで来たので、同行し案内をしました。腰が軽いといえばそうなのですが、ふだん大臣がそういうことでやって来るということが無いから、報道陣に取り囲まれあれこれと言っていました。試験伐採をして猛反対を食らった林野庁は伐採をあきらめ、町長まで代わって、ついに伐採を止めることになったのです。ここにはシマフクロウやオオワシ、オジロワシなど非常に貴重な猛禽類がいるのです。
知床は最近世界自然遺産に登録されましたが、山だけではなくて海の生態系、海と山が川でつながっている、つまり鮭が遡上してそれをヒグマが食べてというような食物連鎖を通じて栄養が循環している生態系が非常に評価されました。こういうところは世界にあまり無いということで、国際的に評価され推薦されて自然遺産になったのです。生態系のつながりが大事で、その一番重要なものが森林だということで、それを守ろうというのが知床国有林伐採問題です。


これからの国立公園(私見)

 もう一枚めくって、これからの国立公園(私見)とありますが、何も書いてありませんが今まで話したことに全てがあります。公園区域も今のままで本当に良いのか、林野庁と協議して協議の整った所に特別地域かなんかの線を引いてやるのが今までの過去のやり方だったのです。これからは「景観」はもちろんですが、「生態系」とか「生物の多様性」を重視しながら、公園区域を縮小するというのではなくて、的を絞って調整するということをしなくてはいけないと思います。当然それに伴って公園計画の再検討、今までは景観重視であったものですが、利用をうまくして大事な生態系を守りながら、あるいは珍しい生物を見て楽しみながら、さっきのエコツアーのようなことを考慮した計画を立てなくてはいけないだろうと思います。
それから管理体制については、9ページ(本書36頁)の6番に国立公園の管理官、レンジャーですが、その数の推移を書いてあります。昭和28(1953)年、つまり始めてレンジャーが配置された時は40名で、私が入省した昭和35年は52名です。46年の環境庁発足時は53名でまだほとんど増えていない、それから昭和55年に99名と倍増していますが、これはその間に管理の体制がブロック事務所というのができたりして、徐々に増えていったのです。そして林野庁の職員を環境庁に配置換えすることによって環境庁は定員を確保できるという「部門間配転」という制度があります。林野庁の人を3人受け入れれば環境省の定員が2人増えるとかということがあってどんどん増えていきました。環境省に昇格した平成13年には210名になり今現在250名、ですから私が入省した時の約5倍のレンジャーがいるのですが、ただ250名といっても28で割ったら10名いないのです。アメリカの国立公園は大きな所1つで300人とか200人100人といった単位で、日本の国立公園は28で割り算して8〜9名ぐらいで少ないですよね。28の各国立公園毎にちゃんと所長を置いた管理事務所があって、そこに充実したレンジャーがいるというようなことが大事だと思います。国立公園とはいえ地域との連携は絶対必要ですし、地方自治体との連携あるいはNPOの方々、ここでも朝パークボランティアの方が会議をやっていましたが、ああいった方々の民間の力を借りて管理をやっていかなければいます。そういう横の連携と、環境省自体の組織をもっともっと充実すべきだと思っております。そういうことを夢見ながら、私自身も陰ながら応援したいと思っています。どうも、たどたどしい話ですみませんでした。(拍手) (1時間22分)

記録 23期 望月 高明


国立公園クイズ・解答
Q.1: 28
Q.2: 瀬戸内海、雲仙、霧島 (昭和9(1934)年3月16日)
Q.3: 釧路湿原   (昭和62(1987)年7月31日)
Q.4: 大雪山    (226,764ha)
Q.5: 瀬戸内海   (11府県)
Q.6: 富士箱根伊豆 (1億300万人/平成14(2002)年)
Q.7: 知床   (公園面積中の特別保護地区の割合 60.9%)
Q.8: 知床、霧島屋久
Q.9: 73   (最多は中部山岳の15、次は南アルプスの10)
Q.10: ご自身で考えてください。日帰りのハイキングや温泉旅行などで、
案外気がつかないうちに国立公園に脚を踏み入れていたかも?