「山と安曇野」
講師 中島 博昭
ただ今ご紹介をいただきました中島でございます。どうぞよろしくお願いいたします。昨年の2月ごろに股関節の手術をして、諏訪の赤十字病院に4ヶ月ばかり入院しました。その留守中にこのお話がありまして、退院をしてから何度か早川さんや諌山さんに電話や家にいらしていただいて、こういう会でこういう話ということが見えてきました。お話をお伺いしている中で、ものすごいバイタリティーのある方々がお集まりではないのかと、また諌山さんも穂高町の住民ということで、いろいろお話をしました。
物事に向かっていくパワーはものすごいものだと感じております。今日もこういう場でお話をするにあたって、私の話を分かっていただけるだろうか、あるいは本当に満足してもらえるだろうかと、不安な気持ちでまいりました。いま早川さんの方からお話がありましたように、皆様も山というものにこだわっておられる様でありますが、私も毎日の暮らしの中では、ここにあります常念岳を眼の前にして、生まれた時から2年間だけ家を離れましたが、ほとんどずっと常念岳と向き合いの生活をしてきております。こういう所で共通の話題ができたらと思いまして、今日は本当に楽しみにまいりました。
本もお持ちのようですので、今日は後半の方でこの本のお話しを中心にと思っております。前半のところでは吉江孤雁を少し見てみようかと思います。突然ここに出て来た男がどこの男かと、みなさんお思いでしょうから、いまご紹介をいただきましたが、もう少し自分のことをお話しさせていただきます。
高校の教員をずっとやってきましたが、終わりのころには大学の講師を少しやりました。教科は社会科ですが、その社会科を教えるかたわら、これは早い段階だったのですが、昭和35年といいますと皆さんは安保闘争をご存じの方もおられると思います。あの安保闘争の時に自分の住んでいる所から、80年くらい前に請願運動をしていた男がいるということを知りました。実はこれが全国的な国会開設運動の先頭に立っていた松沢求策という男だったわけです。当時はほとんど松沢求策など知られていない人物でしたが、私はいろいろ資料を集め、調べて松沢求策の掘り起こしのようなものをやりました。そして昭和49年に松沢求策の本をまとめました。これが初めて本を書くきっかけになったわけです。私は本を書くことはないと思っておりましたが、この人物をなんとか大勢の方に知ってほしいという思いから、なんとか努力してみようということで出しました。これがきっかけになり、それからこのかた10冊以上にもなるかと思いますが、いろいろな本を出してきました。その中で松沢求策という人物だけではなく、自分の住んでいる地域というものを、もう少し見てみたいということで、探訪「安曇野」という本を書きました。
これは地方出版ですが「松沢求策」も地方出版です。これは早稲田卒業の蒲昌志君という人と共同で出したのです。また講談社あたりのカルチャーブックのような中にも、安曇野を取り上げてくれるものには書いてあります。このごろは中央のところにも書くような場面が出てくるようになりました。安曇野だけではなく、もう少し広く松本地方、もっと広い地域まで見てみようと、そんなことで私は郷土という言い方よりも、地域史という言葉のほうが好きなのです。郷土史の研究といいますと、自画自賛するような形で「おらのところはただ一番いい」ということだけを見るようなことに、なりがちなのでむしろ地域という概念で、ものをみつめて見たいと思っています。
どこか旅行する場合も必ずそこへ行ってまず、その地域と他の地域がどんなふうに違うか、いつも自分が住んでいる所と比べながら、本を買って見るような習慣がついております。大学の講座のゼミで小布施町という町がありますが、あの地域づくりはどうであったかということを、テーマにして学生と一緒にやったことがありますが、一番大事な問題はそこの地域はどういう個性を持っているのか、そこに住んでいる住民自身がはっきり理解をしないと、これから新しいことをしようとしても、それはできないのではないかと思います。その中で、地域性というものを非常に問題にするような感覚が、私のなかに付いてきたと言えます。そういうことが今私の一番の観点と言いますか、いろいろなことをやって行く場合のラインになっております。地域づくりをしていく場合には、まずその地域の個性というものを理解して、それから足を一歩前に踏み出さないといろいろな間違いが、出てくるのではないかと思います。そういう意味では先人からいろいろ学ぶということは、大事なことではないかと思っております。今日は山と安曇野ということで見るのですが、最初にこんなところからみて見たいと思います。
山というものに人間がどう係わっていったのだろうかと、いうあたりからみて見たいと思います。簡単にみて見ますと古代とか中世とかそんな時代に、山というのはもっぱら信仰の対象でした。神様は天から下りて来て、山に来てそしてわれわれのところに来ると、 こういう神様の通る道筋だとか、場合によると山そのものが神であるという見方、山が御神体であるというふうにみる見方、あるいは山の一帯は神聖なあの世のような世界であり、聖域であるという見方で長くこういう時代があったかと思います。今常念の話がでましたが、安曇野の南の方は常念岳が中心になっておりますが、少し北に行きますと有明山という山があります。有明山は丁度富士山のような形をしており信濃富士という別名がありますがこれは今でも正に御神体なのです。有明山神社という神社がありますが、ここで拝むと拝んだ向こうに有明山が見えるといいます。今でも昔の見方がそのままあり、有明山の「講」の組織があって全国から集まってくる。今でも有明山の下の方には、講の人たちが泊まる宿があります。こういう見方は古くからあったと思います。これは有名な話ですが槍が岳を播隆と言うこれは坊さんが開いたんです。そういう形で信仰の対象であるということです。
私のこの本にそういう意味で、江戸時代から昭和までの常念というものに、人間がどう立ち向かっていったか、ということを取り上げました。そのなかで江戸時代のあたりで(43ページのところで)十返舎一九がここの地、安曇野の地に来ているのです。この十返舎一九はみなさんご承知の通り、弥次喜多道中の「東海道中膝栗毛」を書いたのですが、あの膝栗毛は当時ベストセラーになって、日本橋から金比羅さんまでいって帰りも書いてくれと、読者の要望でついには東海道から、こちらの中仙道を通ってそして安曇野の道を通って長野に来ている。こういうところまで展開されているのです。弥次喜多道中といいますと東海道のところまでしかないと思われているかも知れませんが、実はずーっとここまでつながっているのです。その取材のために十返舎一九はここまで来ているのです。この時に栗尾山満願寺というお寺に来てそれからその近くのお寺を回わって、ここで取材をするわけです。それがその後「続膝栗毛八編」という本になって出ています。これは48ぺージあたりにも出ております。十返舎一九自身がここの地域を書いた絵がここにあります。この時に来た様子をここに小説風に書いてあります。これは単なる歴史の資料史ではなくて、ノンフィクション小説風に全体をまとめてあります。その満願寺にいくところまでのその栗尾道から、常念岳が実にきれいに見えます。43ページの終わりのところにも書いてありますが、南無観世音菩薩、南無観世音菩薩とみんなが拝むという場面を上げました。江戸時代は山というものは観音様と同じもので、御神体として見ていたのです。当時の人はみんな満願寺に行く場合には札所めぐりという形でいくわけです。みんな33番札所といった格好が全国的な形であったわけです。この当時はこの満願寺やこのあたりも、札所めぐりで来ていたわけです。ですから山とかきれいな地域は一種の聖域として、見ていたということが、だいたい近代以前の見方であると言っていいと思います。
そういう側面ともう一つ山と言ったら暮らしの山である。わらびがあり、茸がある。今でもここの住民は私たちもそうですが、5月になるとわらびを採りにいくとか、たらの芽を採りにいくとか、その土地のものを天ぷらにするとか、みんなで食べあって春がきた季節感を、喜びを味わうという暮らしの山であったのです。その頃は猟銃で撃つとか猟師という特別な商売もあったわけです。いまはそういう者はおりません。山は美しいものだと美の山であると、そういう形で見るようになって山に登ろうとか、山を見ようとかというふうになってくる。実はこの辺が山というものの見方の近代の、開始と言っていいのではないかと思います。近代という時代を山との接点、係わりからいうのであれば、信仰とか暮らしの山が、美を対象とする山に変わっていったというところから、山と係わりの近代があると思います。それを日本の場合年号で言いますと明治20年〜30年ぐらいの19世紀後半とみていいと思います。このあたりはみなさんはご存じだと思います。
そういう形に一番最初に手をつけたのは、日本人ではなく欧米人であったのです。日本であちこちからお金を出して大勢の雇い外国人がやってきます。その外国人たちがいろいろな面で近代化をうながすのですが、例えばゴーランドという男が来て、ここの山は日本アルプスだと命名するわけです。日本アルプスというのはよく間違えられるのですが、イギリス人のウオルター・ウエストンは明治26年にここにやってきて、英語で本を書いて世界中に日本アルプスの紹介していくわけです。外国人が一番最初に付けたヨーロッパの、アルプスという名前と照らし合わせて、ここは日本のジャパニーズ・アルプスとしたのですが、日本人としてはもう少し、日本人としての名前を付けたいという気持が、ここの地域の中にもあったわけです。その前はどうなっていたかということを、私たちは問題にしたいところです。例えばここらの多くの人は穂高見山と呼んでいたみたいです。私の住んでいるところは穂高ですが、“穂”は高いという意味で“高”は高い、したがって高いものを象して穂高と言います。それを穂高見の山といいましたが、全部穂高見の山と言っていたのが、いろいろ名前が付いて一つだけ残ったのがいまの穂高岳です。そういうように穂高見山と続けた方がいいと言っている人もいるわけです。何でも外国のやり方になってしまうのは問題だと、ナショナリズムだと、あるいはみなさんもご承知のようにこれを見て下さい。(「北アルプス」を指して)日本語で何と読みますか、私の方から言いませんから、みなさんが言ってください。「飛騨山脈です」。飛騨山脈といいますね。しかしこれを長野県側から言うと不満があります(笑い)。信州山脈とこちらは言いたいところです。
そうは言っておりませんが、信州と飛騨と両方に入っておりますから、「信飛山脈」という言い方もありますが、あまり使われておりません。飛騨山脈といいますと信州は不満になりますから、信飛山脈と言うのを貫いてくれればいいのですが、いろいろなところには飛騨山脈と書いてあります。このようなところがもめごとの問題になるところです。山というのはもめごとが起こるんです、後でまた話しますがアルプスですが、その日本のアルプスと名前が付いて、今でも言っているというのに対して、私もはっきり言って違和感があります。日本アルプスというのは自分の山という感じがしないのです。皆さんはどう思うか知りませんが、この固有名詞というものはとても重要だと思います。それを自分たちが納得して使っているか、いないかということをもっとしっかり、知る必要があると私は思います。ゴーランドとかウエストンたちが開いていくわけです。ここで大事なことは、本当に山の事をよく知るには彼等だけではどうにもならない。もっと彼等に山を具体的に教えてくれる人たちがいたのです。これを忘れてしまいますが、とかくウエストンとかゴーランドとかと言い、ウエストン祭をやったりしますが、そのウエストンの活躍もそこに、この辺りをよく知る男がいなかったら出来なかったかも分かりません。例えば上高地の、穂高のあたりだったらかつて猟師をしていた上条嘉門次が自分の体験から山を全部知っていたので、彼等が案内をしてやったのです。常念の方になりますと、小林喜作という人で、私の家の上の方に家があった人です。先ほど話しました満願寺のすぐ下の方に喜作は住んでおりました。この喜作については山本茂実さんが『喜作新道』という本を出しております。これも伝説的な男です。猟師ですがウエストンたちを支えた男たちはともすれば隠れてしまいそうな嘉門次とか喜作、こういう伝統を継いだ人たちが、登山時代になりますと山案内人として活躍するわけです。今でも山案内人はここにおります。山岳の関係ではウエストンたちの後を継いで、小島烏水のような人たちが出てきて、日本山岳会を作り大学を中心とした、日本の登山の大衆化が明治の終わりから、大正にかけて始まっていくわけです。
この辺のお話はみなさんはご存じだと思いますので、私はここでは登る山ではなく、見る山、美しい山を見ていく人間という立場から、今日はお話してみたいと思います。(飯島喜久代さんがここでお話しをされているようですね。百瀬慎太郎のね。彼女は私の大町北高時代の教え子です)喜久代さんが百瀬慎太郎を書いたということで、私も見せてもらいました。百瀬慎太郎は安曇野と山との関係のなかでは、落すことのできない人物だと思います。
先ほど穂高見山と住民が呼んだという話しをしましたが、明治20年、30年のころ小島烏水などがここに来て、あの常念岳を登ろうと「西に並んでいる山の常念はどこですか」と麓の人に聞いているのです。ところが当時の住民は常念岳の山はどの山かみんな知らなかったのです。常念岳ってどこだったかと息子に聞いているのです。あそこは常念坊というのがあったそうだと言っているのです。当時の住民は明治20年、30年代というのは、山は信仰の山かあるいは暮らしの山という感覚でしかなく、美の感覚とか登る感覚はないわけです。ある面では無理解であり無関心であったわけです。一つの例ですが、浅間温泉とか山辺温泉とかありますが、あの辺の所では東山のところに温泉があるんです。浅間温泉はこちらの北アルプスに対して、むこうの東山の麓のところに温泉宿がありますが、西側の日本アルプスの見えるところは、大正の半ばころまでは全く窓がない、西の山を見たくても見られない状況であったわけです。西は寒い風が吹いてくるところなので、なるべく締め切っており、目はみんな東を向いております。それが大正のあたりから登山で、日本アルプスとか言うようになってから東よりも西の方をぱあっと開けて、見えるようになったのです。今では松本はアルプスの街です。アルプスの街と言って目はみんな向こうをむいているのです。私はこちらばかり向いているのは不満です。もっと目の前の山にも向けてほしいと思います。
臼井吉見さんが昭和40年代に『安曇野』という本を書いて以来、塩尻から松本までみな安曇野と言い始めてしまいました。私はいろいろ過去について調べてみました。あの安曇野ブームのころは「ノンノ」とか「アンアン」とか、いろいろな雑誌にいっぱい安曇野が出てきましたので、地図を見ると富山県まで安曇野になっている(笑い)。いい名前が出たら絶対奪っちゃうということで、松本まで安曇野と言って(アルプスの街と言っておりますが)、松本は安曇野ではありません。どこからどこまでかはこれに書いてありますから後で見てください。これは厳密にしなければいけないと思っております。佐野坂から向こうが安曇野ではありません。私はこれを書きましたが安曇野か安曇野でないかの、指標をどう見たらいいのか、一つは北アルプスから流れ出てくる川の扇状地部分、安曇野は扇状地であるということです。もう一つは昔から安曇野は、古くは一般の人は使わなく安曇平という言葉を使いました。安曇平という言葉を使っているかどうか住民の感覚ですから使っているかいないかを大事な指標にしました。そうしますと佐野坂から向こうは、安曇平という言葉は使っておりません。あれは四つの村「四ヶ庄(しかしょう)」という言葉を使っていて安曇野ではないのです。
大糸線で来るとすれば梓川のところから、佐野坂までの犀川の西側で、明科町は入らないのです。ですが明科町もいまは安曇野に入っております。安曇野に入りたいのです。入っているといいのです。そういうことで松本の場合は、今でこそ安曇野の一部だとか、アルプスの街だとか言っておりますが、かつてはこちらの山には背を向けていたのです。この地域だけではなく山というものは、美しくていいものだという感覚がなかったわけです。それが美しいものであり、しかも人間形成に役だっているのも山だ、ととらえられるようになってくるのは、明治30年代以降だと言ってもいいと思います。
これから二人の人物を上げて、その二人のいろいろな見方について、見る山、あるいは人格形成に役立つ山というあたりをお話ししたいと思います。その一人が吉江孤雁であり、もう一人は臼井吉見ということになります。まず最初に吉江孤雁ですが、早稲田大学の教授で塩尻出身でありました。ただ教授だけでなく早稲田にフランス文学の学部を初めて開いた人物でもあります。孤雁は本名をと言います。明治13年に生まれて昭和15年に亡くなったという人です。この吉江喬松はフランス文学の研究者としても非常に重要でしたが、農民文学とか海洋文学だとか、今までにないようなジャンルの小説を書いたり、それを進めたりしたのですが、彼の大事な業績というのは、山を登るのではなく見るための山、山岳の美ということを強く主張して位置づけたことです。その彼がそういうようになっていった原点は、塩尻の生まれで晴れた日に西を見ますと、西山のところにくっきりと穂高岳が見えます。その山を小さいころから見ながら育ったのです。彼の書いたものがありますので読んでみます。これは確か『山岳美観』のなかの一説です。
「私は日本アルプス連峰のなかの穂高岳をのみ、いつも眺むるような土地に生まれて、幼年時から西方に輝くこの雪白の山を、仰ぎ見ない日とてはなかったのである。もしこの一列の峻峰が西方を劃くしていなかったならば、まったく取り得のない落莫たる土地であったろうと今も思っている」ここは大事なところで、自分が住んでいる塩尻というところは、この景色がなかったら大変淋しいところであったということです。「今でこそ穂高岳と云えば一人も名を知らぬものがない名峰も、私の少年時はなんという山なのか何人も知っている人はいなかった」という風に書いてあります。その山は「峻厳そのものの如く屹立している」この山の感じを峻厳ととらえております。「別に群山、群れなす山を見下ろしいるとは感じられないが、一段遠き處に離れて立っているという感じである、モンブランの如き懐かしさ、ユングフラウの如きにほやかさ、ベルドースの如き妖艶さではなく、孤高群立の峻厳さである」山をこのようにとらえているそのとらえ方、「それだけに穂高を仰ぎ見るには真夏の日よりも、寧ろ高原地の秋の澄みきった峻烈な気候の始まらんとする頃に於いてするのが自然である。地上には霜が白く、山頂には新しき雪の冠が加えらるる頃、桔梗が原の一端に立って仰ぎ見る穂高の気高さは、全身にしみ渡る精気のほとばしりである。ダヴィンチの天才の閃きではなくして、ミケランジェロの精英の噴出である」山の持っているこの感覚を自分のなかに受け止めている鋭い感性、この辺は吉江喬松がヨーロッパに自分が行って、むこうの山を見たり、山を描いているヨーロッパの作家たちのものを学びながら、ヨーロッパ的な感覚、また近代の山に対する対応を日本に持ち込んだと言ってもいいかと思います。そういうなかで吉江が言っていることを話しますと、ヨーロッパのなかでも山を美しく見るという見方は、古くからあったのではなく中世の時代、19世紀の初めのころまでは恐ろしい場所だとか、悪魔の棲み家なのだと見ていました。そのように見ていた見方がヨーロッパ人によって、美しいものというように山が解放されたのが、19世紀の初めのロマンチシズムの時代からだと思います。
ロマンチシズム文学に出てくるような形で、山を美しく描くということがここに出てきたのです。ロダンという人の彫刻も、あれは近代彫刻と言われておりますが、山の個性を本当に美しく描くようになった、見るようになった、それが彫刻にそのまま表われている。「山の力強さと緊張した隆起」という言葉がありますが、そういうものが近代的なロダンの彫刻に、流れていると言っているのです。ルソーという人物がおりますが、ルソーの文学はいろいろ作品もありますが、あの人の場合もやはり山を美しく見る、自然を美しく見るなかで人間社会を、見直すという形になった。ルソーの有名な言葉に「自然にかえれ」という言葉があります。「自然法という考え方が山と自然を見る見方とつながって、自然法ができるのです」というふうに言っているのです。ヨーロッパのなかでもそうですが、近代の出発点はやはり山とか自然を、どう見ているかとつながっているところが、非常に面白いと思います。そういう見方が日本でも同じような形で出てくるのです。
吉江孤雁の場合は小さい頃の穂高岳の、美しさが根っこにあるなかで、フランスでの体験やもう一つは早稲田大学の先生が島村抱月だったのです。東京の島村抱月の家に行きますと書斎のところの窓が開いていて、その窓から向こうに国境が連山のように見える、ちょうどそのように窓を作ってあるのですが、その当時としては最もめずらしいものでした。その山を書斎から見て島村抱月の執筆や研究をしている姿を吉江喬松は見ながら、その時の解放された島村抱月の姿はとても印象的であり、島村抱月の家に行って見習ったことが、大きいと言っているのです。
この島村抱月自身の文学は、松井須磨子との活動もありますが、その原点のなかに山を眺めていて、そこで自分を解放していったということがあるのです。吉江孤雁は『山岳美観』とかあるいは『自然美論』と言う本を出しています。このなかでもいろいろ言っておりますが、彼の言葉を紹介したいと思います。「多数者にとっては山岳は必ずしも登らずとも遠望するだけでも爽快な感じを与うるものである」というようなことを書いています。「山岳は全体としてその必然的な威容を持って、われわれに迫ってくる」山の遠望、遠くから見つめるこの美しさというものが、近くで見ると一部分しか見えないが、全体から見た場合の山の持っている迫力、そういうことをいろいろな形で彼は説いています。山の持っている魂というか、そこにある力というか、海と山とはどう違うか、山というものは先ほど言った隆起力とか、いろいろなものの原点は山だと、あるいは永続的なもの、永続性とか、そういうものが山であると言えるのです。それに対して海という、海洋というものはもっと自由解放を与えるものであると、あるいは森というものは何を与えるか、森は人間を包む包容力であると、そういう形でとらえるようなことを鋭く掴んでいます。
その『山岳美観』のなかで吉江孤雁が書いた言葉が忘れられなく、どこかで生かさなければと思った言葉があります。これは先ほど早川さんに紹介していただきました、229ページのあとがきのところです。「海洋と共に自由に伸びんことを求める日本人に、同時に山嶺の永続性、隆起力を体得して、この力を、この美を人間の中へ解放せしめることは決して無益なことではない。山嶺の気をして動かしめよ。日本の中央にそそりたつ巨人をして物を言わしめよ」日本の中央にそそりたつ巨人、これです。これをして物を言わしめよと。この前のところでこういうことも言っております。スタンダールが言った言葉に「アルプスがもっとパリの近くにあったら、パリで生まれた文学はもっと違うだろう」と、「日本の文学はあまりにも都市的である」と、もう少し山嶺の気とか中央の山脈の言わしめるものを文学にしていいのではないかと言っているのです。これを聞いて毎日山を見ていながら、何も表現できないのは吉江さんに悪いと思いましたので、それでこれを書きました。後で紹介します。吉江さんのこの言葉を何とか、具体化できないかとそう思って書きました。この吉江孤雁のまな弟子が西条八十なのです。西条八十については後で触れたいと思います。
私もこういう話をして思うのですが、文学活動とか西条八十の作詩の活動の中に、自然をどう見るか、山をどう見るかという見方が無意識のうちに影響して、いろいろな作詩活動ができているのかと思うのです。私たちは山と係わりなくいろいろ見ておりますが、自然との係わりの中で知らない内にどう見ているかということは示唆されるのです。
もう一人の人物を紹介したいと思います。その人は臼井吉見さんです。臼井吉見さんは生まれは常念山脈の本当に麓なのです。穂高町のもう一つ向こうの堀金(ほりがね)という村の、地主の家に生まれました。生まれたのは吉江さんよりもっと後で明治38年に生まれ昭和62年に82歳で亡くなりました。石原裕次郎が死んだのは7月17日でした。実は石原裕次郎は昨年13回忌で、日活では裕次郎のカレンダーを作り、何の関係もありませんが私のところにカレンダーを送ってくれました。石原裕次郎はまた呼び戻されて石原裕次郎ブームが巻き起こったのです。ところが同じ13回忌であっても5日違いの臼井さんは何にもなく臼井吉見さんを知らない人も出て来ます。臼井吉見と言いますとどこのタレント、女の子というくらいです。(ここの若い方どうでしょうか、ご存じでしょうか)
私もいろいろ顕彰運動をして思うのですが、どんな有名な人でも、そのまま時代が過ぎて何にもしないとすぐ消えます。歴史で残っているということは後の人が必ずそこで何とか消さない様にするから残るのです。聖徳太子は昔から有名でいつでも誰でも知っていると思ったら大間違いです。聖徳太子が亡くなった当時は皆さん知っていましたが50年間は空白な時代がありました。それは7世紀の初めに死んで、600年代の半ばあたりで天武天皇が出てきて日本の国を強くしようということで、実力国家を作るということになって、そういう国を作るにはあの時に一生懸命「天皇」という言葉を考えたり天皇の力を強めた聖徳太子という人がいたから、あの人をお手本にして何とか天武天皇を盛り立てて行かなければと言って、盛んに聖徳太子顕彰の本を書いたりしたわけです。ですから聖徳太子は後には仏教を起こした聖学者として広がっていって太子堂とか生まれてきたのです。
どんな有名な人でもそのままにしておけば消えてしまいます。ですから臼井さんが消えてもおかしくないわけですが、でもこの人を消してはだめだと私は思っております。石原裕次郎を日活が一生懸命頑張ってやるのなら、私は地元で臼井吉見を何とかしなければならないと思っております。いま安曇野に一つカルチャーセンターがありますが、そこで4月から12月まで臼井吉見論をやっておりまして筑摩書房を盛り立ててやろうと一生懸命頑張っております。今の時代から見て臼井さんは、何の意味もなさない人でしたら、消えてもいいのですが、17歳の少年が簡単に人を殺すこの時代に、臼井さんのやったことや発言は、絶対に全国的に知られていかなければならないと思います。戦後の中でいろいろ大事なことをあの人は残したと思っています。その臼井さんの最後にやったのが、この『安曇野』です。
この『安曇野』の中にはやはり忘れられないことが出てくるのです。この主人公は早稲田大学出身で、当時は東京専門学校ですが、新宿中村屋を始めた相馬愛蔵と黒光です。そしてその弟子みたいな人になる荻原碌山という人たちが入ってくるわけです。臼井さんはこの人たちを生涯とりあげないと、どうしても死にきれないと言うくらいの執念をもっていたのです。オリンピックの昭和39年から書き始めて、昭和49年まで5巻だして、その後この時代のもっと前を描こうとしました。これは明治30年から始まったがもっと前の日本を描かかなければならなかった。臼井さんは日本の国というものを、この安曇野という一地域出身の人をもって、地方と中央とを結びつけながら中央の動きを描こうとしました。当時は安曇平と言っていた名前に対して安曇野という名前を付けました。当時は臼井さんの造語ではないかと盛んにいわれましたがそうではないのです。この辺りの軍人さんたちが俳句をやったり、百瀬慎太郎なんかは早くから安曇野という言葉を使っていたのです。一般の人は安曇平と呼んでおり、汚い言葉では「あずみでぃら」とこの辺りの人は呼んでいたのです。百瀬慎太郎や詩や俳句、随筆を書く人は安曇野という言葉を使っており、臼井さんはそれを知っていたのです。聖徳太子は大君を天皇という名前にしてイメージアップをした人ですが、臼井さんは「あずみでぃらと」呼んでいたのを安曇野と代えることによって魅力的にした男でもあるわけです。
『安曇野』は昭和40年代に出したのですが、その中で相馬愛蔵たちを描いたのです。臼井さんがこれを書こうとした意図は、日本の国の近代の中でこういう活躍をした人たちがいたので、その人たちの思想は明治以来あったと言うこと、そのままでいったら日本は戦争をしないで済んだのだと、あの300万という血の犠牲を出さないで日本はやってこれる道筋というものはあったので、そういう道筋を作っていた人たちが愛蔵たちを中心にした人たちで、群像であるということだったと思います。そういうことで見ますと、臼井さんは安曇野生まれであったということ、また相馬愛蔵と同じ松本中学校の出身であったということで取り上げられたということもあると思います。安曇野という所から出た人々の個性という面からみても、相馬愛蔵や碌山という人たちを全国的サイドのなかで評価したということは臼井さんは非常に重要なことをしたと思います。
もちろんその他でもこういう事をやった人は前からおられたと思いますが、これが出たことによって全国的に碌山は評価されました。安曇野に来たら碌山美術館にいく。相馬愛蔵については残念ながら弱いのです。奥さんの方が光る存在です。碌山美術館にいって女の像が立っているのを見て、あれは碌山が人妻を恋して、その人は愛蔵の奥さんであった黒光を想い描いて彫ったのだということです。黒光の評価はものすごく高いのですが、旦那さんの陰が薄いのです。しかしこの人はものすごく重要な人物だと思います。この中にも書いてありますので後でまた取り上げで紹介したいと思います。臼井さんは安曇野の中の人物を取り上げていく、言ってみれば日本の戦争に入っていかないコース、または自立のコース、人間が自由に生きている自由自立の伝統というものを、ここの中に描きたかった、その一番の原点には山があります。臼井さんは自分のことを第5巻にかなり詳しく書いておりますので、また機会があったら見てくだい。
小学校時代に臼井さんは、山というものはただ茸を採りに行ったりわらびを採りにいく山ではなくて、これは自分の心の、精神の世界だということを気付かされる時があったのです。これが臼井さんの一番の文筆活動の出発点になるのです。堀金という小学校の時代ですが、校長先生に佐藤嘉一(よしいち)という顎髭の長い校長先生がいました。この人はあまり話はうまい方ではなかったのですが、月曜日の朝庭でやります朝会のとき西に常念岳が見えたので常念を見ろと指して言います。常念岳を見よ、と毎回毎週常念岳を見よと言って、今日は雲にかって見えないな、今日は調子がいいなと後は何も言わなかったのですがこれが感化を与えました。臼井さんはそれまでは山は茸を採りに行く所と思っていたのです。いつも山を見ていると茸を採りに行く山は緑の山で、向こうには雪が頂きにあり、その向こうにもう一つ山がある。茸を採る山と違う山が向こうに立っていて、それが見えたり見えなかったりするわけです。いつも見える山が見えたり見えなかったりするのがまたいいものです。
ここまで来て明日は山が見えるか、見えないか、私が一番心配していたのはそれです。みなさんに山が見えないとほんとうに気の毒だと思いました。また来てもらえばいいのですが、見えるのと見えないのではえらい違いです。よく見える時はとても素晴しいです。私は毎日暮らしておりますから、朝起きると直ぐ前に見えますから「おはよう常念」と、見えない日は残念だと1日が暗くなります。それを毎日見ろ、見えない、見ろ、見えないとやっておりますと、臼井さんの言葉によりますと常念を見ることで精神の世界があるということに気付かされたと言います。何か美しい精神の世界がこの中にある、あれを見ることは精神の世界に生きる事である、ということに気付いたと言うのです。これは他の人たちや生徒たちも、同じことをやっていたのでしょうが、それを見事に発展させていったのが臼井さんであったのです。
それで中学校に入って、その精神の世界をさらに広げることができました。どうやって広げたのでしょうか。下宿をしていた中学の先輩に中央公論を読めと薦められました。大正7、8年のころです。臼井さんは当時地主でお金持ちでしたからいろいろ本があったようですが、それは儒教の本とか昔の和綴じのような本でそれを読んでいたのですが心にはしみなかったようです。先輩の薦めた中央公論は特に小説で後ろの方にあった近代文学です。芥川龍之介、菊地寛、谷崎潤一郎と初めてこういうものを読んだのです。臼井さんにとってはこれも衝撃的でありました。人生というのは、見ていたものに気付き、見ていなかったものを見て衝撃を与えられて、人間が変ることもあります。臼井さんの中央公論の小説は見ていなかったものを見たのでしょう。谷崎潤一郎の小説は「ある少年の恐れ」という本でこれを読んでびっくりしてしまうのです。これは少年が大人の世界をかいま見るわけです。兄さん夫婦の様子を見ているのです。兄さんはお医者さんで奥さんを迎えたのですが、ところが奥さんが死んでしまいます。新しい奥さんを迎えるわけですが、簡単に言いますとこれだけの話しです。実はその奥さんが死ぬ前に新しく迎えるその女性とお兄さんが銀座の診療所にいたのですが、夕方その少年はたまたま行ってみたらまだ結婚していないその女性と一緒にいるのを見てしまうのです。見てはならないものを少年の目から見みてしまうのです。少年は後からくるお姉さんを見る目が変わってくるのです。こちらのお姉さんは犯罪をおかしたようになるのです。これが見事でミステリアスです。そのお姉さんがだんだん青白くなり死んでしまいます。そこら辺は見事です。終わりの方になると夢の中でお兄さんが自分を殺しにくるような夢がいっぱい出でくるのです。そんななかで、身近な大人たちはこんなに複雑な奥を持っているということを少年の目から知っていくのです。
それを臼井さんは同じ少年で知るわけです。私たちも見てはいけない物を見たとき恐ろしくなります。あの恐れがあるからいいのかも知れません。恐れがなくなったら困りますが、ああいう中で臼井さんは精神の世界があって、人間というものはもっと複雑なもので奥深いものであるとことを知っていくわけです。それで人間の正体の探検をして行くためには文学をやればいいと、早くも中学時代からこの精神の世界を広げていくということで、文学の道を歩もうということになるわけです。山の常念の世界から始まった出発点からずっとその精神生活が広がっていくのです。
もう一つ臼井さんの言っていることはその精神の世界を広げるのは本と友達である、ということです。人間はどういう親しい人を持つのか、本当の親しい人とは何かと言いますと、自分の精神の世界を作っていくのに一生懸命に協力をしてくれる人、あの人の言葉を使いますと「精神の世界を作る大事業に参加してくれる人を得られた場合、その人は親友である。男でもいい、奥さんでもいい、恋人でもいい、本当の友だちはそういう人である」と言っています。見事に臼井さんはそんな大事業に参加をする人を見つけます。中学時代一緒に下宿をしていた塩尻から来ていた古田晃という人です。臼井吉見はその古田晃と一緒に昭和15年に筑摩書房を始めるわけです。筑摩書房を始めた時に二人は結婚をしておりました。その古田晃と臼井吉見の奥さんは松本女学校の同級生であり、旦那の方も同級生でした。そして筑摩書房の名前をつける時に、二人とも島崎藤村をとても尊敬しており、島崎藤村は長野県出身だけでなく、昭和の初めのNo.1の作家でしたから、千曲川旅情の詩もあったので、“千曲書房”と言ったら奥さんに“せんきょく書房”と呼ばれてしまうからそんな名前はだめよと言われ、千曲ではなくここは筑摩県とも東筑摩とも呼ばれるし、古田さんの方も東筑摩ですから、筑摩書房はどうですかと奥さんのアドバイスで“筑摩書房”となるわけです。臼井さんは大糸線の電車の中で奥さんと火花を散らした仲で、二人とも短歌で親しくなり、奥さんは非常に才女で臼井さんをしっかりと支えていました。
私は臼井さんとは晩年に親しくさせていただきました。幕末から明治の初めまでをどうしても書きたいということでした。臼井さんは人間の本当のものを知るには、歴史的に見ないと瞬間だけではだめだと、島崎藤村は明治の前後、幕末から明治までのところを「夜明け前」で書いておりますが、本当の時代というものは書いていないのです。昭和10年代に書いたものは、いろいろな弾圧があった時代ですから、木曽の馬込のあたりを中心にした日本を描いたものは、本当にはっきり書かれていないものがあった。その書かれなかったところを私はどうしても書きたい。その中には松沢求策を中心とした自由民権運動があったのです。それを臼井さんは書きたかったのです。
松沢求策を書くために私のところにきたのです。臼井さんは白内障で手術をして、度の強い眼鏡をかけておりました。松本のある喫茶店で昭和50年に会いました。一生懸命松沢球策を書こうとして勉強しておられました。私もあの当時穂高のガイドブックを臼井さんに書いてもらいました。奥さんとはお会いしたことはありませんが、電話をするといつも奥さんが出てくれましたのでこの人があやさんだと思いました。そういうわけで古田晃とあやさんという人を得て、それが臼井吉見の活動を支えたのです。臼井文学館に行ったら今でもあるでしょうか、何時も常念の絵を見ながら彼は暮らしたのです。 東京へ行ってもいつも常念で、臼井さんの中では常念は小学校の時代に、精神の世界を知らされてそれ以来いつも常念で、常念はあの人の中に生きていて、それが広がって原動力となり、こういうものを作っているのです。正に山というものが力の源泉になっているとうことを臼井さんの生涯でも言えるのではないかと思います。
このあたりで休憩を…。
常念岳2857m 「北アルプス」日本山岳写真集団 山下喜一郎 |
(再開)
最初に恥ずかしいですが、自分で作った詩を読ませていただきます。これは信州穂高という安曇野の里、信州穂高という題名ですが、臼井さんのお陰があると思います。安曇野はどんどん観光客が増えているなかで、どうにか安曇野のことをまとめたいと思い、非常にハンディな気持ちで編集して作ったのです。安曇野に来る方々はこういうものを見てくれて、松電のバスガイドさんもこれを読んでくれました。これから読むのは「山」についての詩です。「ズームイン朝」という番組で、これをぜひ読ませて戴きたいとのことで、常田富士夫さんが読みました。あのようにはうまく読めませんが読んで見ます。これは私が毎日山を見ながら暮らしているなかで、私の感じたものをこういう詩にまとめてみました。西山です。
山
人が生まれるずうっと昔から山はそこにあった
人は山麓に生まれ絶えず山を見てそこで育った
高峻な山岳の連なりは人の視界をさえぎってきた
人は山の向こうに関心を注がなかった
人は遥かな思いをたえず前の山にぶっつけ
その峰へ上昇させ天空へと飛翔させてきた
山は人にこびようとはしない
自己の気概に生きて絶えず装いを変える
時には爽快な、時には優美な、そして時には荘厳なコスチュームに
雲をアクセサリーとして空と目前の扇状地を確かな舞台に据えて
冬は白銀に輝き秋は紅葉に映える
朝日を浴びて舞台に立ったスターの様に
誇らしげにそそりたつ山岳
輪郭だけ残して夕闇に沈む憂愁の山岳
それぞれが個性美に輝き人の魂をゆさぶる
限りなく美しく、限りなく深く、限りなく高いのだ
人は山からそのほとばしる情熱を、深く思索する心を、生きる力強さを受け取る。
相馬黒光は碌山の彫刻を指して言っている。
文学(もんがく)や女の一文の彫像は山の魂が人身へ発展した象徴だと、
悠久の時間の刻みの中で多くの人々が生まれ、そして死んでいった。
その人間の生き様を静かにじっと見つめてきた、
山岳の人に語りかける言葉は無限に深い
ここを訪れた皆さん方、心を潜めてその言葉を聞こうではありまんか。
山はこの安曇野のどこでもあなた方に向かい、
あなた方の問いかけをまっている。
―(拍手)―
この中に山というものがわれわれに与えてきたものは、安泰な感じそのものに思われます。この『常念山麓』という本は、そこら辺の、吉江孤雁の山が人間に呼びかけているものを何とかして、その言葉を文章にして見たいと思い書いてみました。私も退職をしまして、いろいろ資料は沢山ありますが、ただ眠っているので、それをそのまま置いておくのもまずいと思い、何とかしたい、探訪『安曇野』の様な形ではなくて、臼井さんのような流れる歴史の中で描いてみたいと考えました。資料の向こう側にあるものまで、その現場でどんな話が交わされたか、入れる資料を検討しながら想像力を働かせて会話など入れ書いてみました。そういう意味では私の今まで書いたものの中では、違った分野に入り込んだのではないか、という気がしております。
ここでは常念が中心になりますが、西の山ともう一つ諌山さんがまとめたものの中で、思いついたのですが、山と言ったらこの安曇野の場合は西の日本アルプスだけではなく、こちらの東山もあるのです。意外に西の山については目を向けておりますが、松本はこちら側(東)に目を向けない。安曇野も西に目を向けても東はあまり目を向けていないのです。そういう中でもう少し東の山にも目を向けて見たい、ということもあってここに書いてみました。
『地図の説明』
明日ここの安曇野を回られるといま諌山さんにお聞きしました。この地図を見ていだだけますか。この地図の上の方が西山の日本アルプスになるわけで、この下の方が東山になるわけです。なだらかな山です、こちらが(西山)尖った山です。ここの所に幾つかの西山から流れた川の土砂が堆積して扇状地が生まれているわけです。安曇野というのはこの扇状地部分をもって安曇野と言われているわけです。この所で言ってみれば安曇野の中でも一番すり鉢の底になるような部分、これが穂高の部分です。丁度この下の所に大王わさび農場があり、この農場はこの安曇野の所で地下浸透した水が一番低い所で湧水になって出でくるのです。これが海抜高度530mで、一番すり鉢の低い所です。あとは全部上に上がっていく高い所です。すり鉢の形をしていて一様に平らにならないで、こうゆうふうに底の浅い、南が高くて、西が高くて、北も高い、丁度穂高の辺り大糸線で来るとぐーんと下がってまたぐーんと上がるんです。意外とその辺の所は安曇野は一様に西が高くて、東が低いと思っている人が多いのですが、そうではないのです。本当によく見てみると西山と東山とこのすり鉢状のなだらかな地形です。そこら辺をまず掴むことが非常に重要なのではないかと思います。
しかもこの扇状地というのは今話した通り、山がつくったものですから山から来た水です。正にこの西山は一つの安曇野の源泉、源になるわけです。この地形的な面、水の面でも基になり、心のいろいろな面でも、ここから与えられたものは非常に大きいと思います。
そういうことで明日は「拾ケ堰(じっかせぎ)」のここの所を回るそうですが、ここの所に栗尾道というのがあります。栗尾道を行くと満願寺に行くわけです。十辺舎一九の通った道ですが、もう一つ加助神社のずーっと南の中萱です。私のこの『常念山麓』の中では第一部は山麓の夜明け、江戸時代が舞台です。この第一部というのは拾ケ堰が開かれる時、前後のことと、その栗尾道を十辺舎一九がやって来る時、丁度交差したその時です。この二つの動きを軸にしてここの所を描いてみました。今安曇野の拾ケ堰はいろいろな人が興味を持つのですが、ここに載っていないことも含めてお話しますと、今安曇野は米所になったというのは、この拾ケ堰のお陰なのです。この拾ケ堰が出来る前は下の方も一面の畑であったりしたのです。安曇野というのは扇状地地形ですから、扇状地というのは砂礫地形ですから、水がみな浸透してしまうわけです。ですから米作りには適していなかったのです。元々は山林原野であったのです。臼井さんの間違って言っているのはこのことなのです。臼井さんは安曇野の人はみんな豊かな生活をしていたので、お天とう様しか拝む人はいなかったから、自主独立の芯の強い人が育った。松沢求策も相馬愛蔵もと言っておりますがこれは大きな間違いです。
むしろ貧しいのです。山林原野しかない所にこの拾ケ堰を作るわけです。この拾ケ堰は普通だったら上から水をもってくるわけですが、その上から来る水は冷いし、水の量は少なくてみな地下へ浸透してしまうのです。上から水をもってくることはできないのでどうしたかと言いますと、暖かい豊富な水の犀川が安曇野の裾を洗って流れているように、木曽からずーっと来て奈良井川あるいは梓川が一緒になって犀川となって流れています。この元の570mの所から等高線上に用水堰で引っぱってきたのです。いままではこんな高さまで水を流すことはきなかったのです。当時はこんなことはできるわけがないと言われており、松本藩ですらそんなことは分からなかったのです。ところが等々力孫一郎とかそういう人たちが盛んに、測量をやりまして、中島輪兵衛などいますが、測量を盛んにする中でここが平だから、こんなに下の方でも平だからここを掘って押して行く格好でいくわけです。そうするとこんな下に見える所からでも、水を引くことが出来るということで、ここに引いたのです。これは正に安曇野の先人たちのすごい努力と智恵、見通しが成功したいい例なのです。これが開いたことによって千町歩が田んぼになったのです。今ではこの水が上まで上がっていることになります。明日諌山さんはぜひここを見てほしいと言っておられますが、私もぜひ見てほしい所です。この先に見えるのは常念です。これが拾ケ堰です。東から西に向かっているのです。本当だったら西が高い方だから、西から東に水が流れていると思うでしょうがそうではないのです。東から西に、上流から下流に山の常念に向かって水が流れてくるのですがこれはすごいものです。
これは安曇野がすり鉢状で570mの所をたどっていったからで、すごい智恵だと思います。意外にこういうことをよく教えていないので知らないのです。この間、私の孫が小学校四年生ですが、担任の先生に話してくださいと言われまして、加助神社と拾ケ堰を歩いて四年生の授業に行ってこの話をしました。そして子どもたちにいろいろ聞きました、「どうしてこう走れるのか」と、みんな歴史をやってませんからどのくらい分かるかと思ったらすっかり分かっておりました。みんなで手を上げていろいろやりました。これは烏川の水はこういうふうに行くのだとか、こちらに土を盛り上げてこちらからなのだ、といろいろ言いましたが、一人の子どもが「ずーっと全部同じ高さなんだ」と言ったのです。「そうなんだよ570mみんな同じ高さの所を探してそこを通したのだよ」と、「同じ高さだよ」と子どもが言った時ぼくははっと思いました。嬉しかったです。正にこういうことを安曇野の子どもたちが知ってくれれば、毎日歩いている地形の高さがどうだこうだと言うことは、ここだけ見るのではなくて、こちらは低いわけですから、こちらは高いわけです。川の流れを見るのではなくて、こちらが側とこちら側とがどうなっているか、すり鉢状かどうか見てくれと、小学校四年ぐらいになってこれくらい分かってくれたら、これからここで暮らしてくれればかなり役立つと思います。
私がこれを知ったのはなんと十何年前ぐらいです、これをもっと早く知っていたら、そういう意味では社会人講師として外から行って話すのもいいものです。そういうことが今はできるようになりました。ここは常念が見えるので景色がいい所です。ただ景色の良さとともに安曇野の先人の歴史的な智恵の素晴しさ、美観と生産力の問題がここにあります。安曇野の先人たちは、美しい景色と、生産力をあげ豊かにすることと、綺麗なものを作るということを同時にやってきたというすごさがあるのです。今それができないのです。今は田んぼがどんどんつぶされてきて、本当に先人に見習わなければならないのがこの辺りです。(だんだん話すといろいろな不満ばかりがでますのでこのくらいにします)
そういう意味で今の拾ケ堰の問題と栗尾道の問題、それから加助の問題、これは安曇野の反骨精神の出発点と言えます。大勢の人を結集して正義の闘いをやったのがこの加助です。もっと古く言えば伝説上の正義の味方がいます。「八面大王伝説」八面大王というのは坂上田村麿に対しても手向かった男だと見ておりますが、ここら辺はよくわかりません。実際にこの加助は今言ったように年貢を増やすのに際し、松本藩の水野の殿様に対して、ここの松本平の一万人を結集して年貢を減らすことをやったのです。そこで強訴というのは御法度ということで、彼は子どもを含めて松本の城山の所の勢高刑場という所で、はりつけの刑で殺されていったのです。問題は、それ以後加助というのは江戸時代では細々とこういう殿様に背いた男はいけないという形で祭られてはおりませんでした。
それが200年祭、200年目のところで先ほど話しました、松沢求策たちが国会開設運動をやるなかで、彼が税金を減らせという形でやったのは、民権の先駆者だというふうに評価をします。ここで加助は一躍農民の神様になったのです。この間も子どもたちに話しましたが、この加助の神社に明日行かれるのであれば、加助を展示する貞享義民記念館と神社があります。裏に行くとすぐわかりますがお墓があります。文字を読んで判断することはできません。角が一番ぼろぼろに崩れた墓石がありますが、これが加助の墓なのです。神様になった加助は、この墓石の石を削って家に持っていって病気の時に飲めば治るということで、みんなが削ってしまったのです。私が調べた何年か前には神社のところにノートがあって、お百姓さんたちはみんな今年の作はどうだとか加助に記録をして伝えているのです。加助の劇をやった農民演劇がありますが、こんな話を聞きました。殿様にはりつけにあって殺されるのを劇でやって、殺される場面になると見ている観客が、加助さん殺すな、加助様殺すなと舞台に上がっていって殺そうとする役人をひっぱたいて倒したという、こういう場面があったという話を聞いております。そのくらい加助は神様になったのです。それ以後加助を顕彰することがずうっと行なわれております。
松沢求策も相馬愛蔵もとりあげております。これから後の人たちは加助を安曇野の正義のお手本のようにしております。ですから加助は今でも残っているのです。加助は貞享義民であるしその反骨は、私も係わりましたが、人権宣言とか国際連合の憲章ですとか、あるいは憲法ですがそういうものと結びつけながら人権教育をする一つの拠点であるという形で位置づけている。これからの人権という部分の中で、先駆者としてとらえようとしているのです。もし明日行かれましたらということです。
これから見ることはもう少し違うことで、あんまり読んでしまいますと、見るのがいやになると思いますので、さわりのところだけお話ししたいと思います。
この本の中で一番中心になるのは、山との関係でも相馬黒光の山に対する見方、これを描きたかったのです。今までいろいろ書いております中でいちばん参考にしたのは黒光の書いた『穂高高原』という本があります。この本はものすごく黒光と山との関係をよく描いております。この安曇野というものを見る場合に、黒光の描いた安曇野というものは、たしか明治30年にお嫁に来て34年にはここを出て行った、わずか4年の間しか安曇野にはいなかったにも関わらず、西山も東山もそうですが、彼女の生活の中に非常に大きくのしかかっていた、影響を与えていたということを書いているわけです。しかも書いたのは昭和19年で明治30年ころから見れば随分後になります。その時にこの『穂高高原』を書いたのです。この黒光の本は『黙移』という本と『広瀬川のほとり』と『穂高高原』の三部作というのがあります。その中で『穂高高原』というのは安曇野を知る場合には非常に参考になり、一番よく売れている本ではないかと思います。
この本はもう無くなっているということで、私は何とかもう一度出したいと思い、相馬家やこれに係わった出版社の記者で島本久恵さんという人とも話し合いをして版権を手に入れました。その版権を手に入れて何とか出したいと思っておりましたら、郷土出版社の社長がきて他の二つのものも合わせて五つで5冊の相馬愛蔵・黒光の著作集を出したいという話になりました。それで郷土出版社から出るようになりました。いま平安堂という安曇野の入り口の所には売っておりますので見ようとすれば見れますがかつてはなかったのです。そんなことで安曇野を特に知りたいのであれば、黒光の『穂高高原』を見ていただければその中に私も解説を書いております。それを書いた時点ではまだ分からなかった部分がその後いろいろな面で分かってきました。
それをここにいろいろ収めたと言ったらいいと思います。その中のページだけでも開けて見ます。122〜123ページのあたりで、黒光は明治30年に結婚式を東京で行い、そこの東の保福寺峠という所から馬に乗って、愛蔵は歩いて安曇野に入ってきたのです。その保福寺峠の所で西山を初めて見るのです。それはこの『穂高高原』の一番最初のところです。前に山田太一が書いた「パンとあこがれ」というTV東京かTBSかどこかでやった中で、宇都宮雅代が黒光になり、東野英次郎の息子が愛蔵になってやったのですが、そこら辺から始まっていくのがあるのです。黒光がこの山をどう見たか、最初は東京とか仙台で暮らしていたのから見ると、この高い山はものすごい恐怖の存在でしかなかったわけです。ここに書いてありますが、「これがその山、あれは何と教えられて、天空にそれを探る余裕を得たのは三・四十年老いて後であった。郷土においてよそ者の私には、山も個性を包み、容易に胸を割ってくれなかったのである。容貌魁偉とだけで、眼をあげて仰ぐにはあまりに巨人すぎるものが、この細長い平らを圧して、まるで私を年中頭痛病みのようにしてしまった感があった」これは最後の最後までここにいる間彼女を圧迫していたのです。同じ人間でもこう違います。私なんか「おはよう常念」と言っているのですが、黒光にとっては抑え付けられていたのです。そこにあげておきましたウオルター・ウエストンも同じ所から来たのです。たしか保福寺峠にウエストンの碑があったと思います。黒光とはたぶん気が合ったと思います。「ペニンアルプスの女王ワイスホルンを小ぶりにしたような優美な三角形の常念岳」とこれはウエストンの書いたもので、『日本アルプスの探検』という本に書いたものです。彼の場合には自分の故郷のワイスホルンを小ぶりにした女性的な優美な三角形の常念岳と、それから見るとこちらは美の対象としては見ていなくて、ただ圧迫した、されたという状況です。もう一つ127ページ、彼女はヨーロッパ文学を一生懸命に勉強しました。ワーズワースとかロングフェローとかイギリスの詩人の田園風景に非常に憧れて、そういう田園的な雰囲気のある安曇野へやって来たわけです。ロングフェローやワーズワースのあの詩の田園風景を、夢みてここへやって来たのですが、ところがその田園たるや山は恐ろしいぐらいでそんなゆったりしたものではない。そこで始まった生活は地主の家ですから全くやることがない、彼女にとってみればやりたくてもやることができないアンビシャスなわけで退屈で退屈でしょうがなかったのです。
また舅というのは愛蔵のお兄さんで安兵衛と言いました。子どもが無かったので準養子になったのです。この安兵衛というのはものすごく体の大きい西山みたいな男でした。それは実際に西山に対する恐怖心と同じように安兵衛に対しても恐怖心があったのです。黒光は二階にいて下に降りてくると安兵衛がいてその側を通るだけでも怖いのです。空気が安兵衛に多く吸われてしまい、私の吸う空気がないくらいという神経で圧迫された感じなのです。安兵衛は西山を思わせるたくましい意志をもってあまり言葉を言わない。黒光は書くことも上手だが話すこともすごいので、中村屋の社員たちは黒光の話しはもう結構だと言ったくらい安兵衛とは全く違っていたのです。家のすぐ東の方で地下水が湧き出る花見と書いて「けみ」といい、昔は水がどんどん溢れていたが今はこれがなくなってしまったのです。この花見が出ていたら安曇野はもっと魅力があると思います。地下水が530mの所の下の砂の所から出てくるので、それがひたひたと相馬愛蔵の家の裏のあたり一面が花見の世界です。まだワサビ畑はない。そういう所へ彼女は行って髪の毛を洗うのです。その時には本当に解放された気分になるのです。安曇野の下の方には水がでてきてハンノ木や柳の木がいっぱあって、ヨーロッパの自分が勉強したワーズワースの世界に似ている、そういう所で髪を洗いながらそこに人魚とかパンの神が出て来る幻想的な世界を夢見ながら彼女は「水が山から来るのであれば嫌だけれど」と最後に書いてあります。「この時ばかりは私は山を愛した。この泉はあの山岳につづき、すなわち山岳の雪消えの水が地下にくぐって来て、ここに泉と湧くのであった。山岳の凝固、固まりは私の耐え得ぬものであるが、水の若さは魂を揺する。地上の凍る時温かく、地上の燃える時切るばかりに冷たい。私は熱のある額を泉に浸し、そうして何か望みを感じて眼を上げるのであった」私はこの場面がすごく好きなんです。
黒光がここの泉の中、花見の所で自分のうさを晴らしている。もう一つ後の方128〜129ページの所で、碌山と黒光が出合う場面があります。この碌山は注目していいと思います。西の方に向かって西山の絵を描いております。先ほど話しました通り明治30年のころ、西山を絵にするということは大変進んでいて、信仰の山、暮らしの山という意識のなかでこの山を絵にしているというこの場面は非常に当時の状態から見れば山を美的な対象として描がいているわけですから大変進んでいるわけです。そこの所にえび茶色のパラソルをさして黒光がやって来てそこで会話を交します。そのなかで129ページです「あの高い山々を絵に書いているんですね」というようなことを言って「そうです。良さんのあの油絵が大きな刺激となりました」実はこの油絵というのは黒光が嫁入りの道具の一つとして、持ってきた「亀戸風景」という油絵で、これは今でも相馬家にあります。「小さい頃から絵が好きで書いてきましたが、この頃は毎日見ているあの常念などの西山の美しさについ絵筆を握りたくなって、こうして書いているのです」「ほうー」良は自分の行為がこの青年に与えた影響を聞いて心が躍った。「でもこうして山を書いていると、みんなが不思議がるんです。なんであんな山を描くのかって?」と書いてありますが、そういうのに対して後の方にあげたのですが「西山は駄目だけど私は東山なら心が和らぐ」とこれも『穂高高原』に出てきますが、東山というのは自分が保福寺峠を越えてやってきた山です。まるっこいなだらかな山で、向こうは自分の故郷東京の方、私はもうこんな退屈な生活から逃げて行きたい、逃げていくなら東山の向こう、東山は黒光にとって彼女の心を癒し、解放してくれるのです。碌山も同じようなことを言っている。碌山も画家になるためには、当時はみんな上田を通って向こうに行く、この山を越えないと東京に行けません。東京で自分の希望、夢をかなえるには、東山に向かわなければならないので、ここで「僕はいまあの山の保福寺峠を越えて東京に行きたい。今のような貧乏百姓の子供じゃ、将来ともとても幸せになれない。いつまでもこのままここにいたんじ、幸せになれない。あの山の向こうに幸せがある、といつも僕は東山に希望を託しているんです」「まあ、あなたも」と言ったかどうか知りませんが、僕の想像力で自然にこういう会話になっていったのです(笑い)。
聞いている良は、東山に向ける想いがこの青年と一致しているのに内心で驚きの叫びをあげた。だが彼女は自分の本心をその場で守衛に口にできる状況ではなかった。思わず飛び出そうとする言葉をぐっと喉元で抑えた。それから1年後の明治31年の暮れ、守衛はひそかに郷土を出たが上田から家族に連れ戻される。良の常念山麓からの脱出はそれから4年後に訪れる。
ここに骨を埋めることは、彼女は相馬家の裏にあるお墓にまで、私は骨を埋めますと書いてありますが、4年後にはどうしても出ざるを得なかった。後を継がなければならないのに出ざるを得ないというのは彼女にとっては大変な負い目でした。この負い目を彼女の生涯ずっと引きずっていきます。その出て行く時に実は彼女にとってものすごく辛いことがあった。それは何かと言いますとここで生まれた二人の子供、長女は俊子と言いました、その俊子という子供を置いて、おまえたちは東京へ行けと安兵衛は言ったのです。子供を置いて二人は東京へ行き新宿中村屋のパン屋に入っていくわけです。この俊子という子どもはここで安兵衛に育てられるのです。その安兵衛に育てられて研成義塾という塾に通って、明治の終わりころ少女になって、東京へ出て行くのです。そして女子学院に行きます。その女子学院で寮生活をするのですが、土、日には帰ってくるのです。帰ってくるとそこに家庭教師がおりました。その家庭教師が西条八十でした。もう一人は中村彜(つね)という男です。中村彜は俊子を題材にして絵を書いてくれと言われて絵を書きます。それが169ページ少女裸像礼賛、中村彜の書いた少女、それから170ページの全裸像に近い俊子を描きました。西条八十は俊子が亡くなった後に俊子を偲んだ詩を作っております。紹介します。
「相馬俊子を偲んで」 西条八十
むかし武蔵野の草から出た月が、小さく三越の屋根にかかっている
むかし遠足の子が野菊をつんだ街道で、洋装の少女が華麗な花束を売っている
私はいま中村屋で匂い高い カリーライスを食べて出てきた
私の教え子だった少女 若くして死んだ相馬俊子さんよ
その夫の印度人が追憶のその店 セルの袴をはいて白面の青年だった私
たれ髪で大きな瞳をしていた彼女 二人がリーダーを手に聞いた
むかしのコオロギの音が どこからか聞こえてきそうな
静かな秋の夜の鼓動、俊子
この詩のなかにも出てくる夫になったインド人というのが、ビハリボースというインドの独立運動でお尋ね者になって日本に逃げてきた男です。これを中村屋が囲うわけです。そのビハリボースを囲ってやってついにはビハリボースを俊子のお婿さんにするわけです。これはお尋ね者ですから大変なことをしたわけです。当時の政府やイギリスに刃向かうわけですから、イギリスというのは世界第一ですから、そこと戦うという立場になるわけですから、ここら辺を見てもらいたいと思います。そのビハリボースが結婚するのに俊子を選ぶのですが、選んだのは黒光と愛蔵なのです。俊子があの人と一緒に行きたいと言ったのではなくて行かせるわけです。お尋ね者の所にお嫁にやるということは、とても大変なことなのでどうなるかと、非常に困ることになるのです。ところがしばらく考えさせてくだいと言って考えた結果「いいですよ。引き受けました」と言うのです。その時に俊子の様子を見て黒光が書いたものがあります。
この俊子というのはビハリボースの所へお嫁に行く、とても普通ではできないことをやったわけです。この子は私の子ではあるが本当の子ではない。この子は山の霊を受けて育った、相馬安兵衛の影響、研成義塾の影響そういうものを受けて育ってきた。これは『穂高高原』のなかの、黒光の言葉ですが読んでみます。
「今にして思えば、その時私のお胎にいたのは生まれて21年の後、印度の志士ボースの妻となる俊子であったのである。俊子が常時寡黙の性質と忍耐力と、大事に対する決断力と、どこからそれがきたのであろうと、生前も死後も私はしばしば彼女の面影を眼に浮かべつつ考えるのであったが、その時私はきっとあの西の山岳の晩秋の夕べの景を想い起こすのであった。彼女にもし胎教として加わったとすれば、それはこの信濃高原南安曇に君臨する山の霊であったと思う。俊子の成長はまことに正しかった。いかにも彼女はふるさとを双頬赤き鄒の少女で送り出されてきたが、その時すでにこの娘の胸には大いなる人間愛、正義の政治へ燃ゆる心が養われてあったのである。それはいかにも繊細な趣味ではなかった。優美でもなかった。ただただ素朴で寡黙の中に、人知れず祖父の剛気を受け継いでいたかと思う」安兵衛の感化を受け継いできたのが俊子で、私の子どもであっても彼女の人間というのはそういうことによって、つちかわれたものである。そのお陰で私の望むボースと、結婚してくれたということでよけいに、元々出てきたこと自身が自分では負い目があるのだが、その娘がさらにそういう所で育てられて、自分の教えではなくその人たちの影響で、自分の思いをかなえてくれたという、二重の負い目を負ってしまうのです。
俊子は早くに子どもを二人残して死んでしまいます。そんななかでビハリボースはその後インド独立運動を始めていきます。この俊子の戒名が雪峰院、雪の峰の院と正にこれは山じゃないでしょうか。どういうふうに考えてなったのか知りませんが、皆が俊子とは言わなかった、中村屋の人たちは俊子のことを雪峰院と言いました。正にこれは山です。山がここに影響を与えている。その俊子が死んだ後は愛蔵・黒光はひたすらビハリボースの独立運動を一生懸命助けます。その孫を見ることも俊子のために大事なことだったのです。せめて孫を見ることによって、ビハリボースのインド独立運動をかなえてやることが、俊子に対してせめてもの罪滅ぼしと、さらに自分がふるさとを捨ててきた罪滅ぼしでもある、その二重の罪滅ぼしをここでやろうということです。やった結果インドは独立運動に向かっていきます。ビハリボースはずっと係わって、細かいことはこれを見てもらえば分かります。そういう所でビハリボースがインド独立軍を作って、その先頭に立って日本軍と一緒に戦って独立運動に入っていきます。その時に『穂高高原』が書かれます。その最後のところに、黒光はあとがきにこう書いています。
「わがボース。祖国のために心血まさにみそぎ尽くして、よし病み倒るるとも、俊子よ、瞑せよ。今ぞ自由印度仮政府樹立、デリーに向かって進軍の旗高きを見る。母は死して形見に遺す正秀も早稲田大学政治科卒業と同時に、大君の醜の御盾といで立ち、父ボース病むとき、看取りして、父が熱国の苦闘の疲れを拭い清むるのは、母の心を深く宿して穏やかに生いたった哲子である。俊子よ、おんみの霊と共に私も満足である」このビハリボースと俊子の子供の正秀というのが早稲田大学政治科を卒業し沖縄戦で亡くなりました。哲子さんは残っていまもおります。私はこの人と話をし、いろいろ資料をいただきました。「かつてふるさとを後にした我ら」ここのところです「我ら愛蔵・黒光ついにここに至る。穂高明神も照覧あれ」穂高明神も照覧あれ、穂高明神は神様です。山の神も照らして見てくれという、私はこの言葉が最初の『穂高高原』の解説を書くときは、分かりませんでした。ずっと見て昭和19年に書いた『穂高高原』は自分の一種の負い目を晴らしていった後こうなった所で書いた本なのです。一種の贖罪の本なのです、単なる穂高の自然を描いただけでなくて、自分と山との係わりというものを軸にすえて、生きてきたその負い目やそういものを全部含めてここに絡めた正に山岳小説と言ってもいいかも知れません。あれほど嫌った穂高の山々、この山、いまこういうふうにしたわれわれの動きを見てくれよ、とここで終わっているわけです。そういうことを見て見ると、安曇野の文学という面でいいますと、これは正に黒光の一つの懺悔、悔恨の文学である。臼井さんのこれは郷愁の安曇野の文学である。ふるさとが懐かしくて懐かしくて困る郷愁の文学であります。しかしここにも山がある。山がこういうふうに係わってきている。
そんなことで時間がきてしまいました。
話ばかりしてきましたので、最後に歌を歌って終わりにしたいと思います。
なんの歌を歌うかといいますとここの歌です。ここの歌といいますと何だかわかりますか。「安曇節」です。長野県人が歌をうたうことになると、ここではなくて外にいるときは、「信濃の国」があるのですが、安曇野に来て「信濃の国」は歌はないわけです。安曇野だったら安曇野独特の歌が、「安曇節」というのがあります。この「安曇節」を作った秦葉太生という人物についてはこの中にあります。細かいことは言いませんが、本当に安曇野を愛して安曇野の歌を作りたいということで作ったお医者さんです。大正の時代に一生懸命にこの歌を作ってくれました。いま民謡は若い人はなかなかお歌いになりませんが、松川村は秦葉さんの村で、保存会があって全国的にやっております。それから山へきた人たち、槍が岳にきた人たちは山で何かあると、安曇節を歌いましょうと出るそうです。山小屋で唄うんです。こういう安曇野のひなびた感じでなだらかな、険しい山じゃなくて扇状地の傾斜面の雰囲気が出ていると言われる、西山の恐れるような峻厳さはこの歌にはないです。この歌詞は今でも誰でも作りたければ、作れるというのが「安曇節」の特徴です。ですから無名の作詩者はいっぱいおります。穂高の町で安曇節の保存運動をみんなでしたり、募集をしたなかで、例えばこんな歌があります。唄ってみます。
「安曇節」
さーあー 会いにきました常念岳に 雪の白さが雪の白さが恋しくて
恋しくて 恋しくて チョコサイ コラ ホイ
という歌です。
会いにきました常念岳に 雪の白さがが恋しくて
これは東京の人がつくった歌です。
東京の人が歌った安曇節という詩があります。これは穂高町で募集したものです。
「安曇節」 (なかはら みちよ)
僕が槍や穂高に挑むのは山頂の上にもう一つの僕の山があるからだ
槍や穂高は霞んで見えぬ 見えぬあたりが 槍 穂高
ビルの谷間のオフィスでロボットになった僕が口ずさむ安曇節
縄乗れんの下で酎ハイをかたむけながら 口ずさむ安曇節
チョコサイ コラ ホイのリズムにのれば 僕の目の前に広がる緑の安曇野
槍や穂高も顔をだし もう一つの僕の山も見えてくる
こういうことで、東京の辺りでも酎ハイ飲みながらも、穂高や槍や安曇節が心の原点とか、ふるさとのように思ってこのように詩を書いて安曇野に送ってくれています。チョコサイ コラ ホイというのは、アイヌ語で、そうだ そうだ まったくだという意味です。
それでは終わりにしましょう。ありがとうございました。
―(拍手)―
(余談として)
「八面大王」伝説について、また伝説を語り伝えていく力について…。
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